カカシ先生なんて、大嫌いだってば。涙を滲ませながら、ナルトは木の葉の里を駆けていた。びゅんびゅん風景が前から後ろに過ぎて行って、見知った場所まで来たところで、ナルトは思わぬ人物に激突した。
「うわっ」
「お。お姫さんじゃないか。おまえ、どうした……――泣いてるじゃねぇか」
「アスマ先生……」
ぶつかったのは、アスマのベストで、ナルトは潤んだ涙を拭って、アスマを見上げた。
「う……おいおい、どうしたんだっ?」
たっぷりと水分を含んだナルトの瞳に、その当時心に決めている女性があった彼だが、思わずグラついてしまった。
「おい、あれがうずまきじゃねぇか」
アスマに続いて人生色々から出て来た上忍たちが、先程の話題の人物を顎で癪る。この里で金髪碧眼はやはり目立つのだ。アスマはガリガリと頭を掻きながら、ナルトに向き直る。
「なんだ、カカシにまた泣かされたのか。ん?」
「なんでもねぇ…」
切ない表情を押し隠して、ナルトはニシシと笑った。ナルトの何かを耐えるような表情に、アスマの背後で、口さがない言葉を聞いていた上忍たちが、ごくんと唾を飲んだ。ナルトは彼等に気が付くと、眉の根を寄せる。
「んぁ……」
男たちの視線に何かを勘違いしたナルトは、気不味そうに、ちょっと怒ったような顔で視線を逸らしたが、今度は男たちが慌てたように弁解した。
「い、いやオレたちは別にだな、おまえに嫌な感情があって見ていたわけではなく…」
「そ、そう。おまえうずまきだよな。おまえの武勇伝はよーく聴いているぞ」
「うんうん、オレたちはおまえの活躍ぶりに感心しててだなぁ……?」
「え、あ…ありがとう」
ナルトは相手に悪意がないのだとわかると、和らいだ笑みを見せた。その笑顔に上忍二名の心臓が跳ねる。また心酔者が出したことも知らずに、ナルトは視線を男たちから外すと、アスマに向き直った。
「あのさ…カカシ先生に会ってもオレを見たって言わないで」
「なんだ、やっぱり喧嘩中か」
「いや、その…。オレが悪いんだってば。オレがつい癇癪起こしちゃっていっつもカカシ先生のこと困らせちゃうんだ。カカシ先生は大人だから、オレ相手じゃあんまり怒らないんだってば」
誰が大人?と大変失礼な物言いではあるが、金髪の少年を除きその場で意見が一致しかけたのだが、ナルトが気付くはずもない。
「う、うずまき、元気を出せ」
「そうだ、カカシの変人っぷりは今に始まったことぢゃないだろ」
「オレたちはおまえの味方だぞ」
しょぼんとしたナルトを励まそうと、男たちが何故かナルトに群がった。
「おまえら、ナルトのこと見掛けなかった?ここらへんでナルトの匂いがするんだけど…」
その数分後。追尾型忍者の習性なのか、ナチュラルに変態なのか、微妙な台詞を呟いてカカシが現れた。
「カカシ、おまえって奴はなんて悪い男なんだ」
「そうだ、あんな健気な子を泣かして、おまえには人の人情ってものがないのか。ヒトデナシ!」
「おまえって奴は、おまえって奴は…男としてサイテーだ!」
カカシが到着した頃には、上忍等はすっかりナルトの味方になっていた。
「は。おまえら、さっきナルトを捨ててオレに浮気しろとか言ってなかったか……?」
人生色々の前で忍に囲まれたカカシは一体彼等に何があったのかと目を丸くする。よく見れば、先程人生色々で、話していた同僚だった。
「浮気!?」
「カカシ浮気をしたのか!?」
「いや、スルわけないでしょ…それはさっきおまえらが……」
「おまえって奴はなんて不誠実な男なんだ」
「見損なったぞ、カカシィ!」
「いや、おまえらが浮気をしろって言っただろ…」
困ったように後頭部を掻きながらカカシが呟く。
「ああ、オレがあの子の恋人になって慰めてあげたい」
「うずまき…。カカシなんてやめてオレにすればいいのに」
「は!?」
何名かの男たちがうんうんと頷き合う。焦ったのはカカシだ。
「ナルトは渡さないぞー!?」
くそ。またライバルが増えた。カカシは恋人の困った才能に背筋を震わした。
ナルト、おまえ。オレがいない間にまた何をしたんだよー……。後日、銀色の箒頭が寂しく揺れていたと、その場にいた同僚等は語ったという。
人生色々のソファーに体育座りをしてナルトは絶賛家出中という奴だった。膝を抱えて蹲ったナルトを見て、アスマは、ナルトに人生色々名物のインスタントコーヒーを渡した。カカシの『一等大事なモン』を泣かしたとあっては、言いわけを述べる前に八つ裂きにされ兼ねない。
「………苦げぇ」
インスタントコーヒーを口に含んでナルトが盛大に顔を顰める。
「だいぶ薄めたんだがな。これでも飲めねぇのか…」
おそらくブラックコーヒーは飲めないだろうと見当を付けて、ミルクを二杯、砂糖を一袋入れたにも関わらず、ナルトの漏らした感想はそんな酷評だった。
「おかしいってば。オレってばカカシ先生の淹れたコーヒーはちゃんと飲めたのに」
その言葉にアスマは辟易した。
「そりゃーオレの淹れたコーヒーは、カカシがおまえのために手間暇掛けたコーヒーとは違うだろうがよ」
「…………」
おそらくカカシの淹れたコーヒーはナルト好みに砂糖もミルクもたっぷり入ったものなのだろう。金色の睫毛に縁取られた瞳にみるみる涙の粒が溜まっていくのを見て、アスマは、はぁとため息を吐いた。
「たく。暇のついでだ、悩みを聞いてやるよ。随分と取り乱していたようだがカカシと何かあったのか?」
ナルトはマグカップに視線を落としながら、口を引き結んだ。アスマは煙草を吹かしながら、金髪の頭をわしわしと掻き回す。
「……カカシ先生の元彼女がオレの家に来たんだってば」
「あー…なるほどな」
アスマはガシガシと後頭部を掻いた。
「オレってば、その女の人にめちゃくちゃ嫉妬しちゃったんだってば」
「……ほう?」
「女の人、撃退したあと、オレってばすっげー汚い感情でいっぱいになって、なんだかオレじゃねぇみたいだったんだってば」
ナルトは、過去にあの女とカカシが関係を持ったという事実に嫉妬していた。
もしかしたら、カカシはベッドの中で自分の耳元で囁くようにあの女にも愛の言葉を囁いていたかもしれない。そんな陳腐な想像が膨らむほどに。
「オレ、サイアクだってば。一人で大騒ぎしてカカシ先生に八つ当たりして…カカシ先生にいっぱい酷いこと言った」
ナルトは、自分の身の内に起こった感情を持て余していた。
「…………」
「オレってば汚い…」
「…いや、うずまき。嫉妬は何歳になってもするもんだぞ。オレもするし、もちろんカカシだってする」
「へ?」
「何もおまえ一人がそんな気持ちになっているわけじゃないぞ。安心しな」
むしろカカシの嫉妬はすでにバイオハザードだ…という台詞をアスマは、いたいけな少年を前に控えた。
「アスマ先生もするの……?」
「するぞぉ。情けないくれぇにな。むしろ、嫉妬しない綺麗な恋愛なんてな、本気で人を好きになってねぇんじゃねぇかと思うぜ。嫉妬っつーのはめんどくせぇ生き物だが、オレはする人間の方が人間臭くて好きだな」
「……アスマ先生はそう思う?」
「当たり前だ。なぁ、うずまき。カカシだって、おまえが嫉妬してるって知ってどうだった?」
「喜んでた。満面の笑みで」
「まぁ、あいつはかなり反応がズレてるが……」
ナルトの悩んでいることは、アスマからみれば、誰しもが躓く道であり、多くの小説や映画で使い古された題材でもあった。
「だが、な。勘違いするなようずまき。カカシは確かにズレてるかもしれねぇ、だけど本気でおまえのことを愛してるんだぞ」
「………それは、なんとなくわかるってば。時々すっげー不安になるけど」
ナルトは考え込んでしまった。いつも、カカシとナルトの間に横たわる時間という壁。その隔たりを超えることは難しい。普段は、あのへらへらとした暢気な顔でカカシが、大人の壁の向こう側からやって来て、ナルトの「側」に合わせてくれるのだ。
「カカシ先生が好きだって言ってくれるのは…。うん、たぶんわかるんだってば。オレもカカシ先生が好きだし。だけどなんでだろうなぁ」
ナルトは、カカシの膝の上に乗ってじゃれていた頃を思い出していた。あの頃は、ただ無邪気にカカシを好きだと精一杯全身で表現していれば良かった。そうすれば、カカシも幸せだし、ナルトも幸せであった。
では、なぜ、3年経っただけで全て上手くいかなくなったのだろう。自分たちの何が変わってしまったのだろうか。
「なんでいろんなことが急に難しくなっちゃったんだろ。オレが16歳になって、カカシ先生がもっとオッサンになって…」
「ぶはは…っ」
「へへへ、冗談だってばよ? カカシ先生は前と変わってないよな。変わったのは……」
変化したのはナルトだ。その証拠に、カカシは今もナルトが何を言おうと幸せそうではないか。二人の関係がズレている、と思うようになったのはナルトだけなのだ。それがナルトを憂鬱にさせる。
「変わったのはきっとオレの方なんだ…」
カカシとの関係に満足していないと言うのではない。ただいつも年上のカカシはナルトを甘やかす。下忍の頃こそ、いつも受け取る側であったナルトだが、いつまでもそうではないのだと、…あの大人に知って欲しかった。カカシ先生、オレってば成長してる。きちんとカカシと自分から「恋人」をしようと思えるようになったのだ。
「オレ…カカシ先生に謝らないと」
ナルトは立ち上がった。
「あ、ご帰還か?」
「おう」
「なんだか急にすっきりしたみたいだな」
「うん、なんで自分がこんなにイライラしてたかわかった」
「っ流石、男前だな」
「へ?」
「褒めたんだよ、青少年~~……」
「うわ、いきなりなんだよアスマ先生。髪の毛ぐちゃぐちゃにすんなってば!」
「ははは……」
アスマに金糸を掻き混ざられたナルトは、よっと椅子から立ち上がる。
「あーぁ、でもさー」
「あぁっ、なんだぁ?」
「なんかガキと付き合うのって、めんどくせぇよな。…カカシ先生もよく持つってばよ」
成長途中の葛藤とか、反発とか、そういうのって大人のスマートな恋愛には付随しないものではないだろうか。
「がははは」
「んだよ、アスマ先生」
「カカシは、そこらへんは重々承知で付き合ってるだろ。おまえが気にするこったぁねぇよ」
アスマの言葉にナルトは苦笑した。
去っていくナルトの背中に、ああ、だがな、とアスマは声を掛ける。
「言っておくけど、大人になっても恋愛はめんどくせぇぞ!」
「本当に?」
道ですれ違うカップルは何もかも上手く言っている気がするのに。
そうした葛藤を誰しも抱えているのだろうか。
「おお、オレもよく花を買ってご機嫌取りに伺うぜ」
「アスマ先生が?似合わねーっ」
ニシシと笑って、ナルトは人生色々を後にした。
「あれぇ、カカシ先生。何やってんの?」
人生色々の前で、地面に腹這いになっているカカシを見下ろして、ナルトは不思議そうに首を捻った。
「ああ、ナルトー……」
「カカシ先生、なんでボロボロなんだってば」
「探したんだよ。なんだか外の奴らにどつかれるし、おまえの気配はないし、やっと見つけたと思ったら髭熊の気配と一緒だし……。ナルト~、熊に犯されなかった?」
「カカシせんせぇ……」
アスマが聞いていたら、ツッコミを入れられそうな頭の螺子の弛んだことを宣いつつ、カカシは太陽を背にしてキラキラと金糸を煌めかせている愛しい少年に手を伸ばした。
「すまん、ナルト。オレ、おまえの気持ちも考えずに無神経なこと言ったよな。オレはけしておまえのことを馬鹿にしたり、ふざけていたわけじゃないんだ…ごめん」
カカシは駆け寄って来たナルトを抱き締める。ナルトは重力の法則に従って、地面に膝を着くとカカシの肩に頬を寄せた。
「泣きそうな顔しないで欲しいな…」
「ふぇ…」
「泣かないで、ナルト?」
「…オレの方こそ、ごめん。オレなカカシ先生の言ってることなんとなくわかった気がしたってばよ…。オレの身体だけ好きなのとか言ってカカシ先生を困らせてごめんなさい」
頬を撫でるカカシの手に、ナルトの肩の力がゆるゆると抜けて行く。
「帰って晩ご飯の続きをしよう…?」
「………」
「ナァールト」
「………」
「おまえと一緒に食べないと、なんにも美味しくないんだよ」
「………」
「ほら、〝仕方ないカカシ先生〟って言ってくれるんでしょ?」
「………オレの台詞、とるなってば」
「ん、すまん」
「カカシ先生はいつも謝ってばっか…」
「そうだね、しょうがない大人でごめんね」
「食器洗いを手伝ってくれるんなら、一緒に帰ってあげなくもないってば」
「いいよ。それじゃー、オレのこと地面から起こして下さい」
「ほんと…仕方ないカカシ先生」
こうして、ナルトの二度に渡る家出は幕を閉じたのであった。木の葉の里でのある日の午後の出来事であった。
End
その後。カカシと共に家に帰宅したナルトは、真っ黒焦げの目玉焼きとキッチンの惨状に、〝ここで忍界大戦があったんだってば……?〟と呟きを洩らした。