放課後のアカデミー。
生徒は全員下校して、誰も居なくなった校庭。
夕暮れの空に、真っ赤に染まった雲が揺蕩う。
生徒のはしゃぎ声はもう聞こえない。
まるで、世界に一人だけ取り残されたみたいな気分だと、
錯覚してしまうような夕暮れ刻。
ひとりぼっちの寂しさなんて、子供にとっては日常で、だから考えもしなかった。誰かが、自分のことを欲しくて、欲しくて、舌舐めずりして待ち構えていたことに。
アカデミーのブランコに揺られて、金色の子供が夕暮れの空を見上げていた。きらきらの黄金の髪。碧い瞳。子供の名前はうずまきナルト。里の忌み子である。
ナルトが、毎日受けていた謂れのない暴力の理由を教えられたのはつい数か月前のこと。アカデミーの副担任だったミズキにより、自分の中に居るものの正体を明かされた。代わりに手に入れたイルカとの絆は掛替えのないものだったけれど…。
(きらわれるはずだってば…)
きゅううと唇を噛み締めれば、ブランコの鎖を握る手も自然と力が籠る。自分の中に、九尾が居ると知って、すれ違う人々の視線が以前よりも怖くなった。そこに籠る憎悪の意味がはっきりとわかったから。冷たい目、自分を人間だと認めない目、化け物として見る目。まだいっぱい、うずまきナルトを見ない目。
キコ、キコ、キコ。足でブランコを蹴り上げるたびに、鉄が錆びた音がした。
いつも、ひとりぼっちだったアカデミー時代。だけど、今は?
「ナールト」
俯いて、頑なにブランコを漕いでいると、地面に長い影が伸びた。
「遅くなってごめーんね。待ったデショ。報告書出し終わったから一緒に帰ろ?」
ナルトの恋人、はたけカカシ。優しい笑顔にブランコから両腕を伸ばせば、長い腕に抱き上げられた。
「ゴハン食べに行こうか?待たせたお詫びにせんせぇ奢っちゃうよ?」
「やったー。オレってば、一楽のラーメン!!」
「またラーメン?おまえいくら好きだからってそればっか食べてたら栄養偏っちゃうデショ?」
困ったように笑うカカシにナルトはうっと詰まった。この顔はズルいと子供は思う。だって、凄く恰好良い。
「おまえ、身体冷たくなってるねぇ…」
「そうだってば?」
自分の首に腕を巻き付け懐いてくる子供の、幼い、それゆえに凶悪な色香にくらくらしながら、カカシはため息を吐いた。ここまで無防備に懐かれるのにどれだけ手間と暇をかけたのかその時間は計り知れない。愛情不足、人間不信のお子様は出逢ったばかりの頃はそれはそれは素っ気なくて、頭を撫でようとすればビクつき、抱き上げれば身体を強張らした。それでも諦めずしつこいくらい、好きだ、好きだ、と愛情を押し付けてやっと手に入れた愛しい子供。
「ねぇ、ナルト。やっぱり今度はナルトも受付まで着いてきなさい?おまえ、オレを待ってる間、ずっとひとりでデショ?」
「そうだけど。なんでだってば?」
「心配だからに決まってるデショ」
「オレ、ちゃんとひとりで待ってられるってばよ?」
こてん、とナルトは首を傾げる。そんな純粋無垢なお子さまにカカシは苦笑する。里のバカどもは気付いていないが、色眼鏡をかけて見なければ、この子供は恐ろしく愛らしい。最近では恥らって目を伏せるなんて仕草も覚えて、素でこんなカワイイことやってのけてしまえる子供がよくこれまで野放しにされていたと思う。
「んー、そういうことじゃなくてね?ナルトが可愛いから。こーんな可愛い子がひと気のないとこにひとりでいるのって無用心デショ。アブナイおじさんとかに変なこととかされたら大変デショ?」
カカシに愛情を注がれた子供は花が開花するように愛らしく変身した。これが自分の与えた変化だと思うと嬉しくもあるが、同時に悩みの種でもあった。
「オレをどうこうしたい奴なんているわけないじゃん。それにオレかわいくねぇし平気だってば」
〝オレってば、かわいいじゃなくてかっこいいだってばよ〟
と、予想通りの答えにカカシはため息を吐く。
「でもね、世の中には小さい子供が大好きで、いけないイタズラしたいって変態さんがたくさんいるんだよ?」
「イタズラ?」
元イタズラ小僧は額面通りカカシの言葉を受け取ったらしい。
「ナルトのほっぺにキスしたいとか、色んなところにさわってイチャイチャしたいってことだよ~?」
オレも人のこと言えないけど?と口調はからかい半分、内心本気も半分混ぜて首を傾げて子供を伺えば、子供のほっぺたが赤くなる。
「っんなこと思うのカカシせんせぇくらいだってば!」
上目遣いで睨んだところで子供にメロメロな大人の前では逆効果でしかないのだが、大人の指さんとする意味を、何となく理解したらしいナルトは夕日に負けないくらい顔を真っ赤にさせた。
「そーでもないぞぉ」
カカシは、ナルトに淡い恋心を抱いている同班の少年を思い浮かべる。認識しているだけでもすでに一人。まぁ、子供同士の色恋はさほど心配していない。が、相手が大人となると違ってくる。
誰がなんと言おうと、どう贔屓目に見てもナルトは可愛いと思う。最近では「可愛い」「愛らしい」等、ナルトの評判をちらほらと聴く。
前からナルトを知る人々たちから言わせれば、元からナルトは可愛かった。ただそれが今まで表立って評価されなかっただけ。
金髪碧眼で、実年齢より幼く見える顔立ち。肌は九尾の力のせいで日焼け知らずで陶器のように白く、栄養不足のため華奢な身体。おそらく、その手の趣味を持つ人間にはたまらない外見をしているだろう。だから、ただでさえ曰くやら何やらで目立つこの子が、おかしな考えを持つ人間のターゲットにされないとも限らなくて。カカシの危惧はあながち考えすぎでもないだろう。
「カカシせんせぇ、オレがひとりだと心配?オレのこと信用してないってば?」
「うーん、そういうわけじゃないだけどね?」
いくら注意しても負けん気の強いお子様のことだ「オレってばもう立派な忍!ちゃーんと自分の身くらい自分で護ってみせるってば!」なんて、よく意味もわからずに、ぷうっと頬を膨らませるに決まっている。カカシが腕の中の子供を抱き締めながら、どう説明したら良いかと考えを巡らしていると、子供がぽつりと呟いた。
「それにさ、それにさ、オレってばあんまり受け付け好きくねぇの。だから、ここで待ってるからいいってば!」
ニシシ、と明るく笑う子供にカカシは胸が痛くなった。本当は知っている。子供は上忍であるカカシに変な噂が立てられないかと心配して公衆の前ではカカシと表立って行動を共にしたがらない、と。だから自分との待ち合わせの場所も、こんなひとけのないアカデミーの校庭を選ぶ。
その生い立ちゆえ人の感情の機微に敏感な子供はいつもカカシのために一歩引いてしまって、いじらしくて可愛らしいと思う前に、わずか12歳の子供に似つかわしくない所作がここまでくればいっそ痛々しいと思う。
「もっとオレに甘える練習しよ?」
「?」
「なーんでもない」
愛しくて、可愛くて、哀しくて、まだろくに手も出せずにいる大切な子供。
「ナルト、せんせーおなか空いちゃった。一楽いこっか」
「一楽は世界一なんだってば」
「たく。野菜炒めも頼むからな。ちゃんとバランスよくごはん食べないと大きくなれないよ?」
「げ。カカシ先生、野菜はノーサンキューだってば!」
「却下。忍たるもの躯が資本。……それに早く大きくなってもらわないと色々シづらいねー」
「なんだってばよそれーっ」
最後の部分に私事入りまくりの最大級の本音を小さくぼそりと載せ、腕の中の子供の、汗と日向かい匂いのする旋毛に顔を埋める。すると、「もー、カカシ先生ってばまた子供扱い」とか「ちゃんと最近は食べてるってばラーメンスナックの野菜味とか」ぶつぶつ文句を言いながら腕の中で子供がむくれている。
子ども扱いどころか、まだ年端もいかないお子さまに色々致してしまいたい、ベッドの下で組み敷きたい、あられもない声を上げさせ啼かせたい、なんて情も欲も含んだカカシの想いは幸いにしてまだまだ気付かれていないようで、焦れったいような複雑なような微妙なラインを揺蕩っている。
そう遠くない未来に自分は全ての欲望をこの小さな身体にぶつけてしまうだろう。たとえおまえに拒絶されてももう離してなんかやれないから、その時はどうかオレ受け止めて欲しい、というのはカカシの身勝手な願いで。そんなことをぼんやりと思っていると下を向いていたナルトがくりんと顔を上げ言葉を放った。
「カカシ先生ってばいっつもオレのことちっせぇちっせぇ言うけどさ」
「うん?」
「オレってばこの間、すっげーためになるテレビみたの!」
「へー、あっそう。どんな?」
「今、バカにしたってば!?そりゃオレってばカカシ先生みてーに読書家じゃねーけどさ…んでもさーカカシ先生、知ってた?植物って水をやる時に話しかけたり撫でたりしたほうが綺麗な花をたくさん咲かせるんだって」
「ふーん?」
それでなに?と促しそうになった大人を、満面の笑顔の子供が遮る。
「だからさ、だから、オレってばカカシせんせーにいっぱい愛情注いでもらってるからちゃーんと大きくなれるってばよ!」
夕焼けの空の下で、はたけカカシはものの見事に固まった。植物に水をやることが趣味だと公言する子供は、自分を植物に見立て例えたのだろうか。そこまでして野菜が食べたくないのか、なんて教師としての模範的な意見はすでにお空の彼方に飛んで行ってしまい、年下の恋人の天然爆弾には諸手で降伏するしかなくて。結局最後に残った感情は、――ああ、なんて愛しい生物。ただそれだけ。ぎゅっと腕の中の子供を抱き締める。
「ねぇ、ナルト。さっき言っていたこと訂正ネ。少しでも長くおまえと一緒にいたい。ナルトと離れるなんて我慢できない。だからオレの傍にいて。オレの我儘をきいて?」
犬のように首筋に鼻を擦り付ける大人にナルトは真っ赤な顔で口をパクパクさせる。そんな叱られた子犬みたいな顔。自分よりずっと年上で大人のくせに、かわいいなんて反則だ。ふと視線を反らした先に、校庭の隅には、ブランコがキィキィと名残りで揺れていた。
「…うん、わかったってば」
「ありがとう、ナルト」
「でもね。オレってば一回で良いから、ここでカカシせんせーを待っていたかったんだってば」
「え?」
「カカシせんせー。あのね、オレってばアカデミーの頃に落ち込んだり寂しくなった時いっつもあのブランコに乗ってたんだってば」
いきなり飛んだ話にカカシが顔を顰める。
「でもオレってば親がいねーから誰も迎えにきてくれなくてさ」
ひとりぼっちで寂しかった、なんて子供の告白は切なくて、大人が子供の頬を包めば、ナルトから満面の笑みが零れた。
「だから今日カカシせんせーが来てくれてうれしかった」
「………!」
「カカシせんせーは絶対来てくれるから。うれしかった」
大人の手に子供のやわい手の平が重ねられる。
「オレを迎えに来てくれてありがとう、カカシせんせー」
花が咲くように笑う子供が、きゅうとカカシの首に巻きつく。
「カカシせんせぇ大好き…」
大人と子供の影がひとつに重なって、あとはただアカデミーのブランコだけが残された。