空気猫
放課後の校舎を。男子高校生たちが走る。
「おーい。ナルト。ずいぶんと急いでるんだな」
「あの人と帰るのか」
「んあ…?あっ、ごめんってば」
校門の一歩手前でシカマルに引き留められ、ナルトは手を縦にして「すまねぇ!」と謝った。
「そうか……」
「どうしたんだってば、シカマル?」
「―――いや、あの人には気を付けろよ。ナルト」
「はぁ?何言ってるんだってば。シカマル?」
ナルトはシカマルの様子にまた首を捻りながらも、門前にいるカカシの元へと駆けて行った。
「あの大人、誰だよ。ナルトのナニ?」
やっと、門前の大人に気付いたキバがシカマルに訊ねる。
「知らねえよ…。めんどくせぇ」
残りの補習時間は脱走に失敗してからというもの、顔を般若にしたイルカが教室の周囲で見張りをしていたため、ナルトたちはなかなか教室から逃げ出すことが出来なかった。
それでも、何度か脱走を試みそのたびにイルカに首根っこを掴まれて、捕獲されるということを繰り返し、ナルトは短くも長い補習時間を終えた。
ナルトとキバは、補習が終わるやいなや「じゃあな」の挨拶もそこそこに教室から飛び出し、あとにシカマルやチョウジがのろのろと続いた。
「シカマルッ。早くしろってばよ!」
「あぁ、なんだよ。めんどくせぇ。結局オレにほとんどプリントやらせやがって…」
学ランの背中を押されてシカマルは欠伸を噛み締めつつ、廊下を歩く。
「おーい。ナルト」
「げ。イルカ先生。オレってばもう補習はノーセンキュー!!」
「おまえなぁ…よくも懲りずに、脱走を繰り返してくれたなー」
「ニシシ。だってさーだって、なんか教室でじっとしてるのが苦手なんだってばよ」
「………たく。おまえは本当にうちの猫に似ているなぁ」
「え。イルカ先生ってば猫飼ってるのか?意外だってばよ」
「おお、うちの猫たちは美猫だぞぉ~。今度、うちに遊びに来い。銀色と金茶の猫なんだがなぁ。とくに金茶の方がおまえによく似ているなぁ」
自宅の猫のことを思い出したのか相好を崩して、イルカが笑う。
「美猫…イルカ先生ってば相当猫好きだろ?ううう、可哀相に独身生活が長かったからペットに愛情が偏ってしまったんだな。今度オレと一楽食べに行こうぜ」
無言で頭をイルカに叩かれて、ナルトはまたニシシと笑った。
「わり。イルカ先生、オレってば今日は急ぐからお説教はまた今度な」
「あっ。おい、ナルト。ちょっと待て」
「へ?」
「校門前に変わった髪の色の男の人が居たがあれはおまえの知り合いなのか?」
「あ…。ええとカカシ先生のことだってば?迎えに来てくれたんだ…」
「カカシ〝先生〟…? なんだ、家庭教師の先生か何かか?」
「そうじゃねぇけど、なんかあだ名みてぇなもんっつぅか…それが何?」
見れば、イルカは何やら考え込んでいるようである。
「あの人の顔をオレはどこかで見たことがある気がするんだよなぁ…。それがどうにも思い出せなくてなぁ」
「カカシ先生なら近所の喫茶店で働いてるってば。木の葉喫茶っつーの。…イルカ先生、もしかして行ったことある?」
「いや、その店は知らんなぁ。そういう身近なのではなくて、もっと間接的に見たというか…ああだめだな。どうもすっきりしない」
「イルカ先生、もうモーロク始まってるんじゃねぇの」
また無言で叩かれそうになってナルトは、今度はひらりとそれを交わすと「イルカ先生、またな!」とイルカに捕まっている間に大分先に行ってしまったシカマル等を追い掛けた。
「…カカシ先生な、今オレの父ちゃんの店で働いてるんだ。イルカ先生も今度店に寄ってってよ」
「そうか。なら、オレの気のせいかもしれないな。引き留めてすまなかったな」
ナルトの後ろ姿を見送ったイルカはそこでナルトの漏らした言葉を反芻して、破顔した。「そうか…。あいつ、とうとう父親に会ったのか」イルカは我知らず息を吐き、近所のスーパーで猫缶を買って帰ろうなんて思いながら、生徒たちが帰宅した空き教室の鍵を閉めた。
「カカシ先生、おまたせ!」
「ナルト、友達を置いて来ちゃって良かったの」
「いーの、いーの。どうせ今日はファーストフード店に寄るだけだったし。せっかくカカシ先生が迎えにくてくれたのに、悪いじゃん?」
「…四代目もおまえが来るって楽しみにしてたよ」
ナルトの返答に、カカシは笑みを深める。カカシが、ナルトの金糸を弄ぶと、騒がしかったナルトが途端に静かになる。
「……っカカシ先生。ここじゃちょっとっ」
「ん、だめ。消毒…。オレ以外の悪い虫が付かないようにね、牽制しなきゃ」
「っ?っ? 何言ってるんだってばよ…!」
まだ学校から、それほど離れていない距離。シカマルやキバの姿が、まだ学園前にある。遠目には、大人と少年がじゃれ合っているように見えなくもないだろう。
「ここでキスしていい?」
「わっ、だっっっ」
「ね、いいでしょ?お願い…」
「やっ、ダ、ダメだってばよ…」
周囲を気にしてるナルトを可愛らしく思いながらも、カカシはナルトの友人等から、ナルトを隠すように背を向ける。
「ね、これならあそこの子たちから見えないから…」
「センセェ…」
弱ったようなナルトの声。
「そんな舌っ足らずな困った声でオレを誘わないで…?」
我慢出来なくなるデショ?と耳元で囁くと、びくびくとナルトが震えた。
「変なカカシ先生…」
結局、カカシに強請られればナルトもそう強く断れない。両頬を掬われるように持ち上げると、薄っすらとカカシのためだけに唇が開けられる。
「―――んっ」
カカシは、吐息の漏れる唇を美味しく頂いたのだった。
「カカシセンセ…っ。あ、やだっ」
「ナルト。大丈夫、怖いくないよ。ゆっくりオレに身体を任せてくれればいいから」
「いやぁ。痛い。ふぁぁ…」
「―――っあ。挿ったよ、ナルト。あっ、あっ…、気持ちいい…」
「ひっく…」
「凄い。ナルトの中、絡みついてくるよ…。こんなことならもっと早くおまえのことを抱けば良かった」
ナルトの肉壁がざわざわとカカシのペニスを包み込む。ナルトの腕が拒むようにカカシの頬に当たる。目尻から零れる涙に、苦悶の表情。突き上げるたびに上がる、か細い悲鳴。全てが、カカシを興奮させる材料でしかなく、自身を打ち込むたびに、ナルトの深い部分と繋がる一体感に身体が歓喜していた。
「センセー、センセー…。もー…、やだぁ…」
「ナルト、ナルト、ナルト…」
気分はサイコーだった。
「サイテーでしょ……」
はたけカカシ三十歳。何がいけなかったのだろう。禁欲生活には相当の自信があったのに、所謂、夢精というものをしてしまった朝である。
恋人の少年の痴態を思って、自分の分身は朝から大変元気だった。カカシは根が淡白な性質なのか、思春期の頃だってこんな状態で目覚めた経験はあまりない。
「最近、抜いてなかったからなー…」
利き手を所在なく彷徨わせた後、仕方なく自身を握り込む。それはカカシにとってはほぼ義務的な作業でしかなく、達した後は虚しささえ感じる行為だった。
「……――っナルト」
どくん…と脈打って精液が自分の手を汚す。頭に思い描いたのは、夢の中のナルトの痴態で、我ながらヘコんでしまうチョイスだ。
「なんで、強姦なんだよ…」
せめて合意。涙を零し暴れるナルトの足を押さえつけて、圧し掛かっていた夢の中の自分。レイプだなんて、ヘコむどころの騒ぎではない。恋人同士になったのに、心を通じ合わないセックスをする趣向はカカシにはない。少なくとも、ナルトに対してだけはやるつもりはなかった。
しばらく、日和見老人のように薄っぺらな布団の上でぼんやりしていたカカシは、出勤の時間を30分程過ぎたところで起き上がる。
テーブルの上には、開けられないままのインスタントコーヒーの袋に、食べ掛けて途中で飽きたと思われる完全栄養食品の固形物。そしてシンプルで素っ気ないデザインの長封筒だった。カカシは、2、3日前に届いて、テーブルの上に置きっぱなしになっていた封書を破り捨てる。
「今更、オレに用なんかないでしょ…」
誰に向けるでもない独り言を紙面に並んだ見覚えのある名前に向かって呟く。
「あー、吐き気がする。気持ち悪い…。―――だめだ。ナルトに会わなきゃ」
トラッシュ缶を蹴って、中から溢れたゴミが荒れた部屋の風景の一部になる。呪文のように〝ナルトに会わなきゃ〟とまた呟いて、ふと開けっ放しのドアの奥にある洗面所の鏡に映る自分の表情を見てうんざりした。
日に当たってないせいで死人のような肌の色。半分だけ開いて垂れ下った両目。自分と狂人の違いをいったいどうやって、見分けるというのだろうか。こんなにも自分はイビツに歪んでいるというのに。
そんなカカシの部屋の中で、ただ一つだけ埃も被らず、ベッドの上に飾られているものがある。ナルトがカカシの誕生日プレゼントだとくれた観葉植物だった。カカシは愛おしそうに、葉の部分を撫で、想い人の代わりに唇を寄せる。
「大切にするよ…本当なんだ。おまえだけは大切にするから……」
ナルトだけは大切にする。だっておまえはオレの全てだから、絶対傷付けない。ナルトの嫌がることはしない。
「ナルトはあの女とは違う…。ナルトはあの女とは違う…」
綺麗で、はにかんだ笑顔が眩しくて、きっと腹を裂いても、あの子の内臓はつるりとして綺麗に決まっている。
「………ナルトってどんな声で啼くのかな」
口の端が、吊り上がりそうになって、はっと我に返る。ああ。ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。スキなんだ、スキなんだ、スキなんだ、スキなんだ。自分は、純粋に、ナルトが好きなんだ。カカシは洗面所に蹲ってしまった。
ナルトを好きになれた。この気持ちだけはドロドロの汚くも醜い自分の中で唯一誇れる点なのに。初めて、大切にしたいと思った。だから、自分勝手な肉欲なんかで汚したくない。
だけど、長くなるキスの時間。密着したい身体。大きくなる欲望の種。ナルトの、吐息を思い出すだけで勃ち上がるだなんて、あの子には絶対に知られてはいけない。
その日、ナルトは学校の小教室の中でため息を100回ほど吐いていた。
「うがーーーーー、オレってばもう我慢できねぇええぇ。外は秋晴れで良い天気なのに、なんでオレがこんな狭い場所に閉じ込められてなきゃいけないんだってばよ」
木の葉学園には定期テストで30点以下の点数を取った生徒は秋休みに補習をする制度がある。ナルト・キバはその補習組みの常連であり、よく放課後、補習組み用の小さな教室の中に押し込められていた。
連休の貴重な時間を割かれるというのは、少年少女にとってかなりの痛手であり、補習を受けたくなければ必死こいて勉強しろ、というのが学校側の主旨なのかもしれないが、いつの時代も、教師泣かせの生徒というものは存在するものである。
何しろ、この補習教室という空間自体が曲者なのだ。当たり前だが、補習教室に勉強にやる気があったり、出来る者がやって来ることは少ない。つまり、風邪を引いてテストを欠席した者以外は、必然的に学校や試験に対して程よくやる気のない人種が集まるわけで、そんな生徒を狭い教室内にぎゅうぎゅう押し込んだ所で勉強しようという雰囲気が出来るわけがない。
補習プリントを前に居眠りをする者、窓から上半身を出して乾し布団状態になっている者、ひたすら携帯を打っている者、紙飛行機を飛ばす者、何故か水彩道具を持ってきて本格的なお絵描きを始める者(それも恐ろしく上手い絵だ)、もちろん補習自体をサボっている生徒もいるだろうが、とにかく集まった生徒たちを見渡すだけでも、ここはどこかの幼稚園なのだろうか、いや幼稚園以下だという長閑な光景が広がることとなる。
今日も、小教室内には何ともやる気のない空気が漂っていた。今回はその中にシカマルが珍しく加わっている。彼の場合は、テスト中に居眠りでもしてしまったのだろう。
キバは学ランの懐に忍ばせていた赤丸にビーフジャーキーをやっている。その前席で「うーんうーん」と唸り声を上げたナルトが爆発したのは補習室に閉じ込められること一時間後だった。かなり堪え性のない部類に入るだろう。
「キバ、脱走するってばよ」
「あぁ、中抜けか?」
「そ。5時半までに戻って来ればオレたちが抜け出したなんて誰もわからないってば」
「うお、それ面白そう。遊びに行こうぜ」
「だろ。おっし、決まり!」
ナルトとキバは腕をクロスさせて拳を握り合う。
「オイオイ。見張りのイルカ先生が来たら、どう言い訳すりゃいいんだよ」
「オレたちはすっげー長いトイレに行ったっていってくれってば」
「大だよ、大!!」
「きったねぇ理由…」
「ふははは、オレたちに不可能はないんだってばよ!」
「シカマル、プリントは任せた」
「また補導員に捕まっぞ」
窓に足を掛けつつ、敬礼した二名にシカマルは「めんどくせぇ」とため息を吐く。
「この辺りの補導員の顔は全員覚えたってば!!」
「オレたちの記憶力舐めるなよシカマル」
ナルト等はその記憶力をもっと別の所に使えば、もう少し優秀な成績を収められたかもしれない。
一階の教室の窓から地面に着地して塀に攀じ登る。しかし、所謂『塀越え』なることをしでかそうとした瞬間、教室のドアが開いた。
「おおい、勉強は進んでいるかー。――って、ナルトォ、キバ。おめーら何をやってるんだぁ!」
「ぎゃ、イルカ先生」
「やべ、逃げろ」
イルカの怒号が響き、それに驚いたナルトは「うわっ」と塀からバランスを崩した。
「ナ、ナルト。なんで!?」
「へ、カカシ先生!?」
真っ逆様に地面に向かって激突しそうになったナルトの身体を受け止めたのは、一見ひょろそうな男の腕だった。カカシは一旦ナルトの身体を支えたものの、バランスを崩して地面に横転した。
「イテテ。おまえ、随分と変わった登場の仕方するね」
「し、仕方ねぇだろ。避けようがなかったんだって。あ、ごめんカカシ先生」
「いーよ。それより怪我はない?」
カカシを下敷きにしていることに気付いたナルトは慌てて起き上がろうとするが、反対に腕を引き寄せられる。
喫茶店に一日中で働いているためか、煙草と珈琲の匂いが染み付いたコートに、顔を埋めて、ナルトはバツが悪そうに身動きした。
「大丈夫だってば。カカシ先生がキャッチしてくれたからオレってばへーキだったみたい」
「そう。良かった」
頬の3本髭の痣を撫ぜられて、ナルトはふにゃりと笑みを浮かべた。
「おぉーい、ナルト。そろそろオレの存在に気付けよ…」
「うぉ…。あ、キバ。おまえも落っこちたのかよ」
「うぅ…。くそ痛てぇ。なんでおめーだけ助けられてるんだよ。ズリィだろーがよぉ」
「ご、ごめ…。大丈夫かキバ?」
「顔面強打だバカヤロー」
キバは少なからずナルトに特別な想いを寄せている。まだキバ自身は、自分の気持ちに勘付いてはいないが、時に身体は心より正直なものだ。憎からず想っている少年の窮地に活躍したいと思う気持ちが行動に出た。
しかし、キバは塀から落ちたナルトに手を伸ばし助けようとはしたものの、反対に自分もバランスを崩してしまった。
もちろん、カカシの視界には学ランの高校生2名が、有に2メートル半ある塀から落下してくる光景はばっちり見えた。しかし、そのうち約1名を完璧に無視し、金色の方だけ迷わずキャッチした彼はまったく自分に正直な男である。
カカシは、ナルトと同じ制服を着ている物体Aに視線を向けて、遅ればせながらにそれがナルトの同級生であることに気が付いた。別段その少年が骨を折ろうとどうしようと関係ないが…どうやら少年はナルトの友人のようである。
「きみ。大丈夫かい?」
「だから大丈夫じゃねぇーって。って。えっ、いや。ハイ大丈夫っす」
ナルトに話し掛ける調子で文句をぶう垂れていたキバは、突然聞こえた低くてやたらといい声に、思わず敬語になってしまった。
冷たいコンクリから顔をズラして、横転した姿勢のまま世界を横に見れば、銀髪の男がいた。男の傍らには散乱した食材が転がっている。オレンジが1個、2個、3個。4個目まで数えたところでキバは不思議に思った。
その他にもトマトにセロリ、ニンジン、赤ピーマン、砂糖と塩を一袋ずつ、赤カブを小さなダンボール1箱に、人間の頭部程ある牛肉の塊。すっげぇ大食らいの人なのかっ?
図らずもナルトと同じ感違いに行き着き、何故、ナルトはあの男と親しくしているのだろう、と不思議に思った。ナルトは男が転がしたオレンジを男に手渡して、はにかんだように笑っている。それは、今まで見たことのない類の表情だった。見ているこっちが照れ臭くなるような笑顔だ。相手が年上だからだろうか。ナルトはいつもより肩の力を抜いているように見える。
だが、ナルトをよく知るキバに言わせれば、ナルトは大人が苦手だったはずだ。とくに今、銀髪の男がやるように、頭を撫ぜるようなスキンシップを、どこか恐れていた。それなのに目の前のナルトは、ごく自然な雰囲気で男の手を受け入れていた。
「カカシ先生、くすぐったいってばよ」
弾むような声が聞こえてくる。
「キバ。カカシ先生がオレンジ1個くれるって。良かったな」
「カカシ先生……?」
「あ。そっか、キバにはまだ話してなかったっけ。この人はカカシ先生。本当は〝先生〟じゃねぇんだけど…――」
「―――ナルト。大丈夫か。落ちるんじゃねぇよダッセぇ」
「シカマル。はれ、イルカ先生は?」
「卒倒中。おまえ、あとでイルカ先生に謝れよな。イルカ先生が心労で入院したらおまえらのせいだぞ」
「ニシシ。わりぃ。だってさーイルカ先生って反応が一々面白れぇんだもん。ついからかってみたくならねぇ?」
後頭部で腕を組んで笑う金髪の少年の額に、ばーか、と消しゴムを投げ、シカマルは、銀髪の大人に視線を移した。
「どうもっす」
「やぁ、こんにちわ。……きみもナルトのお友達かな?」
「………」
カカシはやんわりと微笑んで、いやしかし目の奥はちっとも笑っていなかったのだが、すぐにナルトの方へと視線を落とす。
「今、先生に頼まれて買い物の途中だったんだよ。補習が終わったらおまえもまた店に来なさい?」
「……っうん」
「ナルトー。一旦、教室に戻れ。イルカ先生が目ぇ覚ますぞ」
「おう。シカマル、手ぇ貸してくれってばよ!」
「シカマルちゃーん。はーいタッチ!!」
「はぁ、おまえらめんどくせぇ……」
しぶしぶシカマルは窓から地面に着地して、塀に足を掛けると、キバに向かって手を伸ばす。
「ナルト。ちょっと、こっち来てごらん?」
キバに続こうとしたナルトを、カカシが引き留める。
「んあ、何。カカシ先生」
「ここ、汚れてるよ」
「ふぇ、どこどこ?あ。」
「ん。綺麗になった」
ナルトが顔を拭く前に、服の袖で、左頬の汚れを取られて、にっこり笑われる。「あ、あのさぁ…カカシ先生」「……ん?」「い、いや。なんでもねぇ」最後に耳の裏を擽られるように、触れられ、ナルトは視線をつま先に落とした。
「……ありがとってば。カカシ先生」
でもオレもう子供じゃねぇ…とナルトは、カカシの胸部にパンチをして、ナルトはひらりとカカシから遠ざかり、壁に足を付けるとシカマルに引き上げられた。
ポケットに片手を入れてナルトに手をひらひらしているカカシを見下ろして、
「絶対、確信犯だろあれは……」
シカマルは軽くため息を吐いた。
「おまえ、あの人とどういう関係なんだ」
「へ…。何。シ、シカマル?」
ナルトのうなじを掻き上げながら、視線だけこちらにうっそりと上げて、威嚇していた大人の目は鮫のように無機質で何を考えているのかシカマルにでさえも量り知れなかった。
「とりあえず、飯が終わったら次は睡眠デショ」
カップラーメンを平らげた狐の子供は、ペロペロと自分の顔の周りを舐めていた。まだ化学調味料たっぷりのスープの味が名残り惜しいのだろうか、床を舐め上げようとしたところを、脇を持って抱き上げる。
「ハーイ、そこまで。もう腹は膨れたデショ?」
三角耳の天辺から尻尾の毛先まで、総毛立った子供が、おっかなびっくりとした様子でカカシを見上げた。この子供は口が利けないだけで、おぼろげながらも人語事態は理解出来ているのかもしれない。
「はは…、何もしないからね。オレは部屋の掃除したいからおまえはこっち」
硬直した子供を持ち上げ、クッションの上に降ろす。自分が散らかした食事の後始末をするカカシを、子供は不思議そうに見詰めた後、己の下に敷かれているクッションを見詰め、更に部屋の奥に目を移した。ぱたりとふさふさの尻尾が揺れる。
「………――」
「……はぁ、やっと終わった。…って、おまえ何見てるの」
のろのろとした動作で掃除を終えたカカシは、フローリングの床にぺたんと座る狐の子供の顔を背後から覗き込んだ。三角耳の子供から少し離れた所には、まったく興味も関心も寄せられなかったクッションがぽつんと置かれていた。
視線を合わせ、カカシは合点する。子供の視線の先にあるのは、就寝具。すなわち家主たるカカシが就寝に就く際に使用するであろうふかふかのベッドだ。
「…………」
カカシとて任務明けで、ほとんど徹夜に近い状態である。幾ら上忍で数日眠らなくても耐えられる身体と精神を持っていたとしても、長期任務の後くらいは、自分のベッドでゆっくり寝たい、というのが人間の心理というもの。
だが、しかし。カカシは自分を見詰める碧いまなこの視線に、我知らず唾を呑んだ。
狐の子供が澄んだ両眼でじぃと己を見ている。物言わぬ瞳が、何かを訴えているような気がするのは気のせいか。いやきっと、気のせいに違いないのだ。大体、あんな小汚い所に転がっていた子供が、就寝場所などに頓着するだろうか。人語さえも怪しいというのに、沈黙したまま何も言わずにカカシに要望を訴えようとしようとしているのか。馬鹿らしい。―――が。しかし、万が一、本当に訴えていたとしたら?
目の前の子供を見下ろせば、多く見積もっても8歳程度の外見だ。世間一般の常識からすれば庇護すべき対象者である事はどう見ても間違いない。
季節は秋。室内だとしても夜は冷える。カカシの足元には、Tシャツを一枚だけしか羽織っていない子供が、肌寒そうに素足を晒し、眉を寄せている(ように見えなくもない)。
オレは非人間ですか?
結局、カカシは、何かを試すような子供の視線に耐えきれず、己のベッドとソファーを睨んだ結果、はぁ…とため息を吐いた。
「はいはい、わかりました。オレがソファーでおまえがベッドね。どうぞ、オレのベッドで寝て下さい」
カカシは諦めたようにタンスから毛布を引っ張り出しソファーに寝転がる。電気を消してしばらくすると、部屋の隅っ子で微動だにしなかった子供がベッドに載る軋んだ音が聞こえた。
(オレの目がないと元気に動けるわけね…)
小憎たらしい…ともそもそとカカシは寝やすい場所を探して、頭を移動させる。こんもりと盛り上がったベッドの形。シーツの合間からふさりと飛び出した尻尾と二本脚。どうにも、家の中に己以外の他の誰かが居る気配に慣れない。しかし、任務明けで疲れていたせいだろうか。ベッドの中で子供の寝息が聞こえて来た頃、睡魔はすぐに訪れた。
「ところで、カカシくん」
「なんですか、先生」
「やけにナルくんと親密だね」
「………」
「オレに言わないといけないことがないかい?」
「何がですか…」
ジャズの流れる店内が緊張感で満たされた。ナルトも知らず肩を竦ませて傍らのカカシを見上げる。次の瞬間、酷いよ!とミナトが嘆いた。
「アスマくんから全部教えて貰ったよ。カカシくんはオレに黙ってナルくんに会いに行ってたんだってね。酷いよ、抜け掛けしてナルくんと会っているなんて!それもオレに黙って!」
「え…?」
別の叱責を覚悟していたカカシは拍子抜けだ、と言った表情で固まった。
「もうびっくりしたよ。カカシくんとナルくんが仲良しさんだなんてカカシくん今まで一度も言ってくれなかったでしょう!」
「あらあら、そうなの。ナルト。カカシくん?」
「………」
「……あれ。どうしたの。カカシくん。それとも他に何かオレの怒りを買うことでもしてるの?」
「なんだか鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしてるわねぇ」
「え、いやその…」
「カ、カカカカシ先生は何もしてないってばよ…!!」
慌ててナルトが二人の間に割って入って、ミナトとクシナが目を開く。
「ナルくん?」
「ええとオレってばカカシ先生と超仲良しでさぁ…?なっ、カカシセンセぇ?」
「あー…。はい、はい。そ、そうでした…。ご報告が遅れてすいません、四代目、クシナさん」
ミナトは愛弟子と息子の様子を計り兼ねる様子で腕を組んでいたが、余りにも二人が冷や汗気味に説明をしていたものだから、やがて息を吐いた。
(どうやらアスマが上手く誤魔化してくれたみたいだねぇ…)
カウンターの端でアスマが素知らぬ顔で座っている。四代目の様子を見る限り、カカシがナルトと付き合い、キスまで済ましていることはバレていないらしい。もし、本当の自分とナルトとの関係がバレた暁にはこの世から抹殺されることは必須だろう。
「あれがアスマさん……?」
ナルトが不思議そうに、カウンターの端に座る大男を見詰めている。
「あれ。ナルトってアスマとは初対面だっけ?」
「前に一回会った切りだってば」
ナルトは首を捻るが、どうやら記憶が曖昧らしい。無理もない。以前、ナルトがアスマに遭遇した時は暗闇の上に、ナルトは酷く混乱した状態にあったのだから。
アスマはナルトの視線に気が付くとガシガシと後頭部を掻いて立ち上がった。如何にも仕方ねえなぁと言った風情でやって来た身長180cm以上の男を見上げてナルトは「うぉお」と驚きとも知れぬ声を上げた。
「あー…そういやお姫さんとはほぼ初めましてだったな。オレは猿飛アスマ。なんつぅーかそこのカカシのダチみてぇなもんだ、腐ってるがな」
「はぁ…?」
「ま、腐れ縁ってこと」
くくく、と苦笑してカカシが相槌を打つ。
「こいつ、これでもスタジオミュージシャンなんだよ。下のスタジオで仕事してるんだよねぇ?」
「うっそ。すっげー…!」
ナルトは驚いてアスマを見返す。ナルトの羨望の視線を受けてアスマは気不味そうに、頬を引っ掻いた。
「へえ、ナルト。音楽に興味あるの……?」
「いや、オレってば詳しいことはよくわかんねぇけど、音楽やってる人なんて知り合いに居ねえからびっくりしたんだってば。アスマさん、ギター弾ける?」
「ま、……そりゃ一応な」
「すげー!」
「………」
「ナルト~…。実はオレ凄く卵掻き回すの上手いんだぁ~。人の脳みそみたいにこうグチャグチャってさぁ――…」
「へぇ、そうなんだ。――なぁ、アスマさん。今度ギターの弾き方教えてってば!」
「………」
おい、あんまりオレに興味を示さないでくれ。アスマは、ジリジリとした視線を送って来る友人に冷や汗を掻きつつ、アスマハ金髪のヒヨコ頭の少年を見下ろしたが、「すげーすげー」と無自覚な少年は横でおんぶお化けのように被さっている大人に気付くことなく喋り続ける。
「でもさ――…」
「ん?」
「オレってば、ミュージシャンの人はもっとこうヒョローとして死にそうな人ばっかかと思ってたってばよ」
「どんな偏見だ」
「ぶっ、―――あっはっはっはっ」
ナルトの一言にカカシが大爆笑をした。くくくと悶絶して背を折ったカカシを見て、アスマは驚いたように目を見開いた。
「んだよ…カカシ先生ってば相変わらず笑い上戸なのな。またオレのことバカにしたんだってばよこの人は。なー、アスマさん」
「あ…あぁ?」
喫茶店のカウンターで、始まった波風(うずまき)親子の重いんだが軽いんだか、コメディ何だか分類に困る珍騒動に巻き込まれ、さながら風景と化していた猿飛アスマは、何とか退出の機会を窺っていたのだが、思わぬ友人の一面を見て片眉を跳ね上げる。
「……なるほどな」
「へ?」
「いんや、なんでもねぇ。――それじゃあカカシ。オレはもう行くぞ」
――結局、昼飯は食えなかったがな。
「え、もう行っちゃうんだってば」
「おう。また今度な、坊主。ギターの弾き方もその時に教えてやるよ」
「やりぃ。サンキュってばアスマさん!」
「―――――……」
極上の笑顔がアスマに向けられる。煙草を取り落としそうになった自分に驚きながらも、アスマは片手を上げる。
はっきり言ってアスマは今までナルトのことを、可愛いがられているばかりのお稚児さんだとばかり思っていたが、今起きた一件で、惹き付けられるものを感じた。
何より金髪碧眼の目に引く容姿はもちろん、どこか構い倒したくなる雰囲気を持っている少年のようだ。面白いものを見れたなと、「またな」と言ってアスマは木の葉喫茶から去って行った。
カランカランと扉に取り付けられているベルの音が消えて、また喫茶店内に静寂が訪れた。
小さな頃、ナルトは家に母がいないことを不思議に思うことはなかった。食卓に配置されている三人分の席の内、病気で倒れた彼女の欠員が出来ることはしばしばだったし、父もまた飲食関係の仕事をしているため、ナルトが就寝してから帰宅していたので、朝に少しだけ顔を見れれば、「父ちゃんと会えた!」と驚いてしまうほどだった。だから一人で食卓に座ることには慣れていた。
広い部屋に一人きりでいると食卓の電灯はいつもより暗く感じられたが、だからと言ってそれを不満に思う価値観をナルトは持っていなかった。
だけど、小学校に入学して、同級生の友人が毎日母親と会話をしているという話しを聞いた時、初めてナルトは自分の家庭が、余所とは違うのだと気付いた。
ナルトにとって父母がいる状態は、「スペシャル」な状態であり、「その日あったことを逐一報告する」親子の会話というものが当たり前のように毎日成立している、一般家庭に驚愕した。
そして、波風ミナトが失踪して、歪ながらも綺麗な三角の図形を模っていた、家族の関係は壊れてしまった。
クシナは手術と療養を兼ねて長期入院生活に入り、ナルトは一旦、母方の祖父の家に引き取られ、クシナ夫人が、手術を終え、体調を回復させる頃には既にナルトは猿飛という老人と一緒に暮らしていた。
ナルトは血の繋がらない老人と母とを天秤に掛けた結果、そのまま老人と暮らす道を選んだ。ゆっくりと年老いて行く、彼の残された僅かな時間を、一緒に過ごしたいと思ったのだ。
「オレってばこのまま猿飛のじぃちゃんと一緒に暮らす。今更あの家には戻れないし、オレはオレの人生を生きるから、母ちゃんは自分の人生を楽しんで」
それがナルトの答えだった。ナルトの選択を母のクシナは少しだけ寂しそうに聴いていたが、すぐに彼女特有の笑みを浮かべて明るく笑った。
「わかったわ、ナルト。ナルトにはナルトの人生があるものね。ナルトの好きに生きなさい。ママはママの人生を謳歌してみせるわ。それでいい?」
「うん、母ちゃんが楽しい人生を送ってくれるなら、オレはそれで幸せだってばよ」
「でも、あなたはいつまでもわたしの息子よ、それを忘れないでね?」
「うん、サンキュ。母ちゃん!」
だから、中学に入学した時の春、「ママ、ヨーロッパに行きたくなっちゃったから行くことにするわ」と言われた時も、ナルトはそれほど驚かなかった。
「ママ、決めちゃったわ」と言った時のクシナを止めれるものは誰もいない。自分も一度決心すると人の言うことを聞かないほうなので、似たもの母子と言われればまったくそうなのかもしれない。
「母ちゃんが行きたいなら、行けばいいってば」
病気がちで決まった定職に就くことが出来ないクシナはフリーのインテリアコーディネーターの職に就いており、ヨーロッパに研修も兼ねて旅行に行く事にしたらしい。
「そう?じゃあ、ママちょっとの間、この国を留守にするわね」
両手ガッツをする母に「その意気だってばよ母ちゃん」とナルトは笑った。
「それじゃあ、ママこれからお買い物行くから、もう行くわね。次に会うのは3年後なるかしら?」
「おうってば。いってらっしゃい、母ちゃん、買い物、買い過ぎちゃ駄目だってばよ……?」
「うふふ」
「〝うふふ〟じゃねーってば!お願いだから一回の買い物で5万も10万もいっぺんに使っちゃ駄目だてばよ!」
「それじゃあね、ナルト!」
「……うあ、母ちゃん!!!」
それが記憶の中で覚えている限り母子の交わした最後の会話だった。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃーんクシナママただいま海外旅行より帰宅!」
「母ちゃん…」
「クシナさん、おかえり」
ツバの大きな帽子を被ったサングラスの女性が入って来た。真っ白なフレアスカートからすらりと伸びた足。華奢な作りのミュールに、しっかり塗られたパールのペディキュア。
「ヨーロッパ一週旅行は楽しかったってば…?」
「もうサイコーだったわよ、ナルト!好きなことして、ママお肌も心もつやつや」
条件反射でナルトが、母と最後に交じわした会話から、導き出される質問をした。
「きゃー、カカシくんも久し振り。眠そうな顔して相変わらずね。もっとしゃきっとしないとだめよ~。若いんだから!」
トランクケースをどかんとカウンターにおいて、満面の笑顔でクシナ夫人は首を傾げた。
「あら、あら、あら。みんな雰囲気が暗いわよ~、どうしたの?」
「………」
カカシがハァ…とため息を吐いて手で額を覆い、ミナトは妻好みの味のコーヒーを淹れていた。
「これはコーヒーメーカーはカカシくんへのお土産。フランス製のフライパンはミナト。ナルトのお土産は…」
「クシナさん、カウンターの上でトランクケースを開いたら危ないよ」
「あら、ごめんなさい。ミナト」
父と母が並んでいる光景を、ナルトはどう捉えていいのかわからない。
「ナルト、元気にしてた?ご飯ちゃんと食べてた?」
「……んー、ぁ。いや、うん」
それはどっちなんだというような曖昧で且つ正直な返事をして、ナルトが丸椅子の上で縮こまる。
「なんだか変な感じだってば。またさ、父ちゃんと母ちゃんが二人並んで立っていると…」
「確かにそうね。ミナトとも久しぶりだわ」
「そうだねぇ」
まるで昔に戻ったみたいだ。もう二度と見ることが出来ないと思っていた光景。
まだミナトがサラリーマンではなかった頃、波風家の休日は、水曜日だった。その日は親子三人が食卓を囲んで、和やかな時間を過ごすのが、波風家の休日の過ごし方だった。
平日が休みだと、遊園地や動物園、水族館はがら空きで、広い施設内全部が波風親子の「貸切り状態」が常で、よく親子三人で水族館や移動遊園地に行った。
平日の水曜日は、遊園地で風船を渡してくれるピエロも、動物園のキリンも、カバも、どこかのんびりとしていて、眠そうだった。水族館の魚たちのあくびさえ聞こえてきそうで、静かな館内は、本当に深海の中に潜り込んだみたいで、幼いナルトの記憶はそうしたパステルカラーの父と母の思い出に彩られていた。
だから、幼い頃家族三人で暮らしていたナルトが幸せであったというなら、そうなのだ。
「ナルくん…?」
「ナルト…?」
「オレってば嬉しい…。のにっ、ごめん。なんか涙が勝手に……っ」
「あら、あら、あら…」
クシナが丸椅子に座っていたナルトに駆け寄り、膝を折る。細い指がナルトの背中にそっと寄せられた。
「くう……」
背中を擦ってくれるクシナの手が、余計にナルトの涙を誘う。
「……んでっ」
「ナルト…?」
「ナルくん?」
「なんで二人で幸せそうに並んで笑ってるんだよ。オレに隠してたのかよ…っ」
「………」
「母ちゃんはずっと父ちゃんと連絡取ってたんだろ。二人でオレに隠し事してたのかよ」
「ナルト…」
「オレは何も知らなかった…」
己の家は一般的にいえば家庭崩壊の不幸せな家であったかもしれない。だが、ナルトに言わせれば、今までの人生もそれなりに楽しかった。辛いことや理不尽なことはたくさんあったが、まったく楽しいことがなかったと言えばそうではない。日常生活の中で、好物の物を食べれば美味しいと感じたし、当たり前だが恋も出来る。
どうしようもないことが、この世にあるとわかった人間は酷く楽観的だ。大概、幼い頃に不幸な境遇を経験した子供は、よく笑うようになる。不幸な顔をしても、しょうがない。本当に不幸だと人間は、不幸を隠し前向きになる。
ナルトの場合は時折塞ぎ込むように落ち込むことはあるものの、日々は忙しかったし、自活するようになってからは、生活の糧を稼ぐために、時間に追われた。そこに、哀しみが割り込む余地は少なかったし、ナルトも自分の足元に広がっている暗い穴について深く考えないようにしていた。
下ばかりは向いていられなかったのは、下を向くと、そこから一歩も歩けなくなるからだ。
だから笑う。へらへらして、不幸なんて何もないというふりをする。ふりはいつしか演技ではなくなり、周囲にとっての本当になる。
そしていつしか、楽観的だとか苦労していないように見える、と言われるようになる。当たり前だ。苦労しているように、見せないように努力しているのだから。
もっとも大体父が失踪しましただの、母は入院中だの、いちいち人に説明するのは面倒臭い。クラスメイトでも、ナルトが両親から離れて育ったと知ってる人間は限られているだろう。別に吹聴することではないし、そんなものだ。
家に帰ったら母親が料理をして待っていて、父親が新聞を読んで居間にいる家なんて、それってドラマの中だけの話じゃないのかよ?と思ったことも何度かある。
だけど、今、父と母を前にしてナルトは…
「どうして黙ってたんだってば」
「…………」
「……オレが一番許せないのは、全部オレに黙ってたってことだってば。父ちゃんと母ちゃんは愛し合ってたのに、家族を続けられなくなったんだろっ?そういうのオレがガキだからって、秘密になんてして欲しくなかった。ちいせぇオレは大人の事情は理解出来なかったかもしれねぇけど、全部教えて欲しかった。そしたらちゃんと頑張って考えたのに―――……ちゃんと理解しようとしたのに。子供だからって蚊帳の外に出して欲しくなかった」
ずっと二人は喧嘩して別れたんだと思ってた。二人の気持ちと絆が途絶えたのだと思っていた。
「どうして大事なこと父ちゃんと母ちゃんだけで勝手に決めたんだよ!オレだって家族の一員だったのに!!」
「ナルト…」
「ナルくん」
「オレは…オレは……っ、どうでもいい子だったっ? 隠されて傷付かないとでも思ったのかよっ?」
「ごめんなさい。ナルトに、余計な心配を掛けたくなかったの。…まだ小さかった貴方を巻き込みたくなかった」
家にお金がなかったということ、病気のこと、養父との間にあった確執。誰かの怨嗟を齎す結果で、家族が成立したこと、幼いナルトには知られたくなかった。
「わたしたちは少なくとも憎しみ合って別れたわけじゃないわ。わたしもミナトもずっと家族を続けたかった。ただ、それが普通の形では難しくなってしまっただけ」
「ナルトが大きくなったら、自分から聞きに来たら全て話すつもりだったよ。…だけど、もう16歳になるんだもんねぇ、話すのが遅れてごめんね…」
「ふぇ…。うっく……」
「オレもクシナさんもおまえのことを、愛してたよ」
ミナトの言葉にとうとうナルトは嗚咽を漏らし始める。
「ナルト…」
蹲って泣いているナルトをクシナが抱き締めた。
「ごめんね、ナルト」
「くぅぅ……」
「これからは家族三人でたくさん話し合いましょう?」
「うう…、ぅん」
小さく頷かれた頭を代わる代わる父母が撫ぜる。
「おまえがお義父さんの家に居た時、ナルトのことで一番怒ったのはクシナさんだったよ」
ミナトは我が子に優しい視線を落として話掛けた。ナルトはミナトを見上げてから、苦笑気味になっているクシナを交互に見る。
「怒ったクシナさんはそりゃ恐かったなぁ。凄い形相でお義父さんに詰め寄って、今にも倒れるんじゃないかって真っ青な顔でおまえが猿飛さんと暮らせるようにしてくれたんだよ。でなきゃあの頑固な人がおまえをああもあっさりおまえを里子になんて出すわけないでしょう?」
「私に出来ることはそれくらいしかなかったもの」
「母ちゃん…」
そんな少年の肩に手が置かれた。
「ほら、勇気出して聞いて良かったデショ?おまえはちゃんと愛されて生まれて来たんだよ」
「カカシせんせぇ……」
そのままカカシの懐にナルトはすっぽりと収まる。大人にぎゅうと抱き締められて、やっとナルトは身体の力を抜くことが出来た。
ナルトが流したのは、7年越しの涙。すれ違って糸は解けた。しかし、蟠りや困難は未だ残っているだろう。
これから、この3人の家族がどういった形で再生していくか、それは誰にもわからない。
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職業 ノラ
趣味 散歩・ゴミ箱漁り
餌 カカナル
夢 集団行動
唄 椎名林檎
性質 人間未満
日記 猫日和
ある日、カカナルという名のブラックホールに迷いこむ。困ったことに抜け出せそうにない。