閑散とした部屋を見回して、カカシはキッチンに立った。そんなことをしているべき状況ではないことはわかっている。だけど、他にやるべきことが思いつかなくて、つい日常的な動作をやることで自分を誤魔化してしまうのだ。
インスタントの珈琲をカップに注いで、一口飲んで顔を顰める。これは、こんなに苦い液体だっただろうか、とそのまま胃に悪そうなほぼ熱湯の珈琲を構うことなく一気に飲み干してソファーに腰を沈める。額に手を当てると、瞼の裏に金色が思い浮かんだ。
どれくらいそうしていただろうか。三分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。同じ体勢を取っていることはそれほど苦にならないので、天井を見上げてぼうっとする。
元より、手に入らなかった、諦めていたものが、一時とはいえ手に入ったのだから、それで満足なのだと、思うべきなのだろうか。バイバイだってばと少し困った顔で眉を寄せて、去って行ったバックパックの少年が何度も脳裏に浮かぶ。
これからいったい何度、この映像と声が再生され続けるのだろうか。おそらく擦り切れて壊れて、残像になるまで思い浮かぶのだろう。そして、ノイズの走る残像になったとしても、果たして自分は、あの少年のことを忘れることができるだろうか。
奥歯をぎりりと噛んで拳に力が入る。
いつの間にか、珈琲カップが割れて粉々になっていた。どうやら無意識のうちに、割ってしまったらしい。
「………あれ?」
ボロボロと遅れて涙が出て来た。その時、初めてカカシは、ああ、自分はナルトがいなくなって哀しいのだと気が付いた。ナルトに、何もしてやれなかった自分が悔しくて情けないのだ。カカシはそのまま膝に両肘を付いて頭を抱え込む。
「サイテーだ…」
さらに日はぐるぐる回り、夜が来て朝になって、昼間は機械的に仕事をして、家に帰ればソファーに丸まる。
食事をする気分にもなれずに、ぎりぎり死なない程度に水を口にするが、なんとなく身体に何かをいれるのがいやになって吐き出してしまう。
流石にヤバいと思うが、だからと言って何をする気分にもならなかった。
「あ、忘れん坊……」
三日目に、ソファーの隅っこで見つけたのは、ナルトが付けていた髪飾りだった。蓮の華を象ったそれは、ナルトの使っていた整髪料の残り香が残っていて、カカシは徐に唇を寄せた。
「…………」
心臓がやっと伸縮活動を始める。この感情は〝切ない〟だ。
このままでいいのだろうか。
ナルトを、あのまま行かせて良かったのだろうか。最後に見た背中はあんなに頼りなくて、細かったのに。たとえ僅かでも自分の腕で支えることが出来たかもしれないのに。
カカシはナルトの髪飾りを握り締める。
―――……いいわけないでしょっ。今からでも遅くない。ナルトのいる繁華街に行こう。カカシはソファーから跳ね起きると、廊下を駆けた。滑って転びそうになりつつ、ドアノブに手を掛けようとした瞬間、ピンポーンとチャイムが鳴る。
「へ?」
「カカシ先生っ…!!!」
くたびれたシャツと底の擦り切れたジーンズ、適当な靴に足を突っ込んだカカシはそこで物の見事に固まった。
ぴょーん、となんとも間抜けな効果音と共に金色のひよこ頭が自分の首に飛び付いて来た。
カカシの色違いの瞳が瞬く。
そのまま漫画か何かのように、スピード線が入った背景と共に二人が玄関に倒れ込む。
「………あだっ」
(なーんか、オレ…こいつに押し倒されてばかりいない…?)
それもどうなの大人の沽券に関わる感想を脳裏の思い浮かべつつ、重量約50㌔弱のタックルは一介の数学教師にはちょっとキツかったようだ。
自分の首に懐く少年に戸惑いながらもちゃっかり腰に腕を回しつつ、カカシは玄関に立つ黒髪のオト…オカ…男と、レンズの奥が深くて表情が判り辛い丸眼鏡の青年に目を向ける。
「カカシせんせ、カカシせんせ、五日ぶり。オレってば帰ってきちゃったてば」
「いやだわ、ナルトくん。出会い頭の抱擁なんて若いわねぇ」
「大蛇丸さま、そういう問題ではありませんよ」
三者三様の口から飛び出した台詞に、一瞬ぽかんとしつつ、カカシの瞳が険しくなる。そんなカカシを余所に、ナルトは「紹介するってば」とぴょこんと立ち上がった。
「オレの店のオーナーの大蛇丸店長とチーフマネージャーのカブトさん」
「あら、ナルトくんったらちゃんとわたしたちのことを紹介してくれるのね」
「あったりまえだってばよ」
「ふふふ、相変わらず素敵に男前ねぇ」
「おう、その通り。オレってば男の中の男!」
「ふふふ、可愛……」
「………ちょっと大蛇丸さま、いい加減ナルトくんから離れてください」
背景にケバイ使用の薔薇の花びらを飛ばしつつ、鑢を掛けてその気のある人が好みそうなカラーのマニキュアを塗った指がナルトの顎をついと乗せているのに、痺れを切らしたらしい丸眼鏡の青年が口を開いた。
「ケチねぇ、カブトは。別に無理強いしてるわけぢゃないんだし、ちょっとくらいいいぢゃないねぇ…、ナルトくん?」
フシャー…と蛇の舌が出される。あくまで誇張的且つ現実世界では有り得はしない背景の中ではあるが。
なんだかピンクだかパープルだか分らない禍々しい異世界な光景に、カカシは、
「ナ、ナルト。お願いだからこっちに来なさい」
と、両手の平を前に出して、ひたすらいやな汗を掻く。
「?なんだってば、カカシ先生」
「あら、いやねぇ。別に人様のものまでとって喰いやしないのに……」
怪しい笑みを浮かべつつも「とって喰いやしない」と言っているが、舌舐めずりしそうな勢いでナルトから視線を外さないその言動はちっとも信用がならない。
――喰われる、確実に狙われている。
口をあんぐり開けた蛇と能天気な蛙の背景がカカシには確かに見えた。
「ナルト、いいから離れなさい」
反射的にカカシは、背筋に駆け上がる寒いものを感じて、ナルトをベリッと音がしそうな勢いで引き剥がしに掛かると、店長と名乗った怪しげな人物に拳と足で渾身の力を込めて押しやった。何となく距離をとっても首がにょろにょろと伸びて喰い付いてきそうな雰囲気があったのだ。
「あら、いやだわ。乱暴ねぇ」
どこか恍惚とした声色で大蛇丸が頬に手を押さえつつ、転倒する。
「お、大蛇丸店長!!」
スリット深いスカートにも拘らず床に大胆な姿勢で大の字になった大蛇丸に、カブトが「自業自得です」と額に手をやり、カカシにぎゅうぎゅう抱き締められてたナルトは、じたばたともがいて大人の腕から抜け出すと慌てた様子で駆け寄る。
「カカシ先生、なにするんだってばぁあああオロチ丸店長ってばちょーちょー良い人なんだってばよおおおお!?」
大絶叫するナルトに、カカシはひくりと片頬を強張らせた。そうしている間にも、つつつ、とナルトの背筋に怪しい人差し指が這い上がって行ってるのだ。
「てんちょ、セクハラ!…そりゃ見掛けは怪しくてちょっとカマっぽいけど、店長ってばラブ&ピースなゼンエイテキニンゲンなんだってば」
「そうよ、恋愛に国境なんてないのよ」
「大蛇丸てんちょ、カッコイイってば」
「ふふふ、ナルトくんは可愛いわね」
尻を鷲摑みにされそうになって、「てんちょ、セクハラ」とまたナルトが星マーク付きで大蛇丸の手をぺしんと跳ね除ける。どんな関係だこの二人は、と思いつつ、カカシはここぞとばかりに長い腕を活用して、さわるなふれるな近寄るなとばかりに、蒼褪めた表情でナルトを腕の中に抱き締めた。
「なんだ、あんたたちは。なんのためにやって来た」
「カカシ先生?…むぎゅっ」
「ちょうど良かったよ。今、この子を迎えに行こうと思ってたとこなんだ。このままナルトだけ置いて出て行って欲しい」
「あらあらあら……」
カカシが眉間の皺を寄せて、大蛇丸とカブトを見上げる。腕の中でナルトがあっぷあっぷと酸素を求めて暴れていたが、構わず強く抱き締める。
その様子を見た大蛇丸とカブトは、お互いに顔を見合わせると、奇遇ねぇ、奇遇ですねぇと口々に言った。
「は?」
「今日はあなたにその子を返しに来たのよ」
大蛇丸はカブトに目配せすると、カブトがブリーフケースから分厚い書面を取り出した。
★予想外に大蛇丸さんたちが楽しすぎました。