空気猫
空気猫
走れ、走れ、走れ。だけど、どこまでいったって、帰る場所なんてどこにもない。
父が死んでからカカシはずっと平静を装ってきた。自分はもう子供なんかではないから大丈夫なのだと自分自身に言い聞かせていた。
そうしないとカカシの足を引っ張ろうとする輩がカカシの周りには溢れていて、カカシが転んだ瞬間に「それみたことか」と嘲笑うような気がしたからだ。なのに、突然現れたあの生温い笑みの人物は当たり前のように自分を子供扱いするから、カカシの調子が狂ってしまうのだ。
だからカカシは何かから逃げるように暗い夜空の下を駆け出した。走れ、走れ、走れ、逃げるんだ。あのぬるま湯のような笑みから、自分の頭を撫でる温かい手から、逃げるんだ。
里の外れのゴミ置き場までつくと、一気にゴミ山を駆け上り座り込んだ。溢れ出る涙を拭いながら丸くなる。
帰る家を失った今どこにいけばいいのかすらわからなかった。
もう生家にだって迎えてくれる父の存在はない。この時、初めて自分がちっぽけで頼る者を持たないひとりぼっちの子供であることに気が付いた。
このまま、このまま、いっそ消えてしまいたかった。
「見ーっつけた」
わざと空き瓶を踏む大きな音を立てて、青年が立っていた。青年は少しも息を切らせた様子もなく、こちらに歩み寄ってくる。
「来るな」
思った以上に冷たい声が出た。だがまたしても青年は歩みを止めない。「来るなって言ってるだろう!」近寄ってくる青年に、カカシは、来るな、来るな、来るな、と叫んだ。何故だか青年が怖くて恐ろしくて仕方がなかった。
「今更やって来て勝手なことばかり言って、おまえもあいつらもみんな同じだっ、自分の都合を押し付けて、人の気持ちも知らないで!おまえらが、勝手なことばかり言うから―――!」
父さんが死んだんだ、と言おうとして、込み上げる嗚咽でまた丸まる。
たぶん誰かのせいにしてしまいたかった。自分以外の誰か。心の奥底で、父の自殺から必死に目を逸らそうとしていた。自分が父をこの世に引き止めるのに何の役にも立たなかったという事実に、向き合いたくなかった。自分は捨てられたのだ、と認めたくなかった。
「ごめん」
一言。
「ごめんね」
たった一言だった。
気がつけば、星空を背景に金髪の大人が自分のすぐそばにいた。
おそらく、何も悪くない、第三者からの、優しい謝罪の言葉。
本当に聞きたかった声からはもう聞くことはできないけれど。何よりも欲しかった言葉。
「今までよく一人で頑張ったね」
こんなありきたりな使い古された簡単な言葉にカカシはどうしようもなくなって涙が溢れた。
「…帰ろう?」
家に帰ろうよ。当然のように言い放つ大人はきっとカカシに断られるなんて考えてやしない。いや、NOと言ったところで無駄なのかもしれない。自分はそういう人に捕まってしまったのだ。なんだか馬鹿らしくなってカカシは差し出された手に己の手の平を重ねた。
「わわっ!?」
「あはは、やった。カカシくんをゲーーット!」ボクを選んでくれてありがとう!と突然、大人に抱き上げれた。
慌てるカカシを尻目に「あ、結構重いんだね」さすが男の子、なんて大人がなんだか知らないがやたらと上機嫌で笑っている。
「帰ったらご飯にしよーね」
「………」
「あ、そうだ。シカクとも仲直りしようね。大丈夫、オレも一緒に怒られるから!」
「あいつは嫌いだ」
「父さんの悪口を言う奴なんかと口を聞くもんか」とむくれるカカシの言い分がおかしかったのか、ミナトはくつくつと笑った。
「あいつはね、なにもカカシくんのお父さんを嫌ってあんなことを言ったんじゃあないんだよ」
「?」
「ボクたちの世代にとってカカシくんのお父さんはヒーローみたいな人だったからね。だからあんなふうに死んでしまわれて口惜しかったんだよ。あいつなりに憤ってたんだ。なんで這い蹲っても生きてくれなかったのかって」
どうして自分たちが時代を変えるまで待っていてくれなかったのか。それは己が信用されてしないとも取れて。許してあげてねと笑う大人の横顔は少しだけ寂しそうだった。
「てか、カカシくんって身体硬いね。肩痛いよ」
「……なら、下ろせばいいだろ」
「やだ~~」
もうどっちが子供だかわからない会話だ。そのまま腕の上に乗せられて運ばれる。それが自分に向けられる攻撃ならばかわせるが、不思議とその大人の腕を振り払う気にはなれなくてカカシは困ってしまった。
「自分で歩ける」
「えー、楽しくないかい?これ」
「子供扱いだ…」
「だって子供でしょ?」
「違う」
「10歳なんだし」
「大人はみんなそういうんだ」
年齢で線引きするなんてズルい、とカカシは唇を尖らせた。大人に混じり任務を行う時に子供のくせに生意気だと謗られたのは一度や二度ではなかった。もちろんそんな輩にはあとからきっちりと抱腹したが、理不尽な扱いには殺意さえ覚えたものだ。だから子供扱いされないためにも、早く立派に一人前にならなければ、と思っていた。父の顔に泥を塗らないためにも子供扱いなんて、最高の侮辱と同じと思っていた。
「でも子供がいないと、大人が頑張る意味がないなぁ」
「意味……?」
「そうそう。大人なんて言ったって大したものではないんだから」
それは知ってる、と憮然としたカカシにミナトは破顔した。
「子供がいないと、ぐだぐだだよボクも」
「……それはあんただけだろ」
「どうだろうねぇ。言わないだけで、みんな同じかもね?みんな、背伸びしてるだけなのかも」
そう言われて、少し考え込む。今まで子供扱いしてきた者の中に、本当は自分を案じて心配してくれた人がいたのだろうか。父以外の全てのものを排除してきた自分には、見えなかったもの。本当に自分を気に掛けて話しかけてくれた人がいたのだろうか。黙ってしまったカカシに気が付いてミナトが少し笑う。
「子供が子供らしくあるのは大事なんだよねぇ。しっかりしてて、自分でなんでもできるなんてしなくていーの」
少なくともボクの前では子供でいて欲しいなぁと青年は言った。
「そのうちいやでも大人にならなきゃいけないんだからさ。せめて今だけでも甘えてよ?」
大人になったら泣きたくても泣けなくなるんだからと、囁かれた大人の台詞は、いつになく真剣で、泣いて縋れば、父は自殺をやめてくれただろうか、とぼんやりと考えた。もっと自分が頑是ない子供であったのならば、子供の特権を駆使して、甘えて、我儘を言って、たとえば、おいてはいけないと思ってくれたのなら、父は踏み留まってくれただろうか。いや、全ては仮定の話でしかないのだが。
いつの間にかまた溢れた涙に青年はきっと気づいていたが知らないふりをしてくれた。
「ボクは、カカシくんの家族になりたいんだ」
「は?」
「約束しよう、ボクはきみに家族をプレゼントしてあげる」
このミナトとの約束はいびつながらも、叶えられることになるのだが、それはまだ先の話だった。
アパートに帰ればシカクが夕飯が並ぶテーブルの前で待っていた。泣きはらして目を真っ赤にしてうつむくカカシとミナトを見比べ、「ようやっとご帰還か。待ちくたびれたぞ」と言われカカシが睨むと、
「ガキ」
「ガキじゃない」
「はん。おまえがガキなのは事実だろ。口惜しかったら、〝これから〟文句を言わせないだけの実力をつけるんだな」
と呟かれた。それはもっともなことで、カカシは初めてこの男に好感を持った。見上げれば、ミナトが例によって例のごとく笑みを浮かべていて、カカシの頭をぽんぽんと撫でた。ミナトのこの癖はその後、カカシが気恥ずかしいからやめてくれという年齢になっても続けられ、周囲から「バカ師弟」の名前を頂戴した。だけど、幾度となくカカシの頭を撫でた優しい手の平が、カカシはなによりも好きだった。
そして、時間軸はよどみなく流れる。ミナトに引き取られたあともカカシはやはり生意気な子供のままだったが、師にだけは頭が上がらないというお約束な少年に成長した。
さてその数年の間に波風ミナトが起こした破天荒な騒動の数々と、その度に巻き込まれた弟子の涙なくしては語れないエピソードは今は割愛させて頂くとして(なぜならとてつもなく話しが長くなるから)、「ボクの奥さんでーす」と満面の笑みを讃えたミナトにクシナを初めて紹介されたのはカカシが13歳になったばかりのことで、時はさかのぼること3日前。
「結婚することになったから」
その日、やたらと上機嫌で帰宅したミナトは、にこやかに宣言した。
「はい?」
カカシといえばこの人はまた何を言い始めたのだろうと、思考を停止させた。
「……先生、お付き合いしている女性いましたっけ」
カカシはごく当たり前の疑問を師にぶつけた。その頃、カカシは火影となった彼の補佐のような仕事もやっていた。女性の影があるなら、自分が一番に勘付いても良さそうなはずだった。「えー?」とにまにま普段より一層しまりのない顔で笑う師をカカシは半眼で睨んだ。
「先生!」
「やーん、カカシくんこわーい」
カカシはここ数年で鍛えた平常心を総動員させて、にっこりと笑った。
「先生、すいませんが、オレにもわかるように説明していただけませんか?」
「だからー、結婚することになったのー」
「……ではなくて。ああもうっ。なんでこんなに話が通じないんだ!…それでその方とはどれくらいのお付き合いなんですか?」
「三日間?」
卒倒しなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。だが、話を端折る師の話を根気良く聞き出すところによると、なんでもアカデミー時代からの同級生にプロポーズし、相手も頷き、即日に結婚までかこつけたとのことだ。(いったいどんな相手なんだ!)とカカシは師の選んだ伴侶を激しく不安に思ったものの蓋を開けてみればカカシの心配は杞憂に終わった。
ミナトが連れてきたクシナは少々突飛なところがあるが、気のいい女性で間もなく三人で暮らすことになった。
妊娠した彼女は本当に幸せそうで、カカシは一抹の寂しさを感じながらも二人を心から祝福したのだった。
またその頃のカカシは、忍として何かと忙しい時期で、不穏な動きを見せている国境付近の監視を任されていたため里を出ていることが多かった。
木の葉の里に九尾が現れたのはそれから間もなくのことだった。その日、数週間ぶりに里に帰還したカカシは赤く染まる空を見た。
「……先生?」
逃げ惑う人々、倒壊する家屋、事態の異常さに、カカシの声は自然と震えていた。今、思えばその時カカシはすべてをわかっていたかもしれない。そして、これから突きつけられるであろう事実に怯えていた。
いってらっしゃいと見送ってくれた、クシナさんはどこだろう。
初めて会った時笑いかけてくれた笑顔が温かくて母の温もりを知らなかったカカシは、この人を守ってあげようと思ったのに。
「…っ先生。クシナさん?どこですか?くそっ、いったい、なにがあったんだよ」
どうしてだろう。幸せだった風景が二度と戻らないのではないかと酷く気持ちが焦った。喉がカラカラに渇く。
「先生、どこですか!答えて下さい!」
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。おいていかないで、貴方がいなくなってしまったらオレは。「いやです、先生――、」絶叫に近い悲鳴は、だけどなんの役にも立たなかった。
どこかで獣の咆哮が響く中、カカシはいつかのミナトとの会話を思い出した。
それは彼が四代目火影に就任して間もなく経った頃の、うららかな午後のある日だった。
「カカシくん、ボクは人間なんだよ。愚かで浅はかなただの人間なんだ」
「はい?」
「きみはどう思う?」
先程まで、書類と睨めっこしていたミナトは、窓際族よろしく硝子を隔てて見える空にうつつをぬかしていた。呆れて言葉も出なかったが、どこか不思議ちゃんな雰囲気を纏う彼の発言にいちいち驚いていては仕事は進まない。カカシは「はいはい、いいから仕事してくださいね」と言って、未処理の書類の束を執務机にどすんと乗っけた。
「カカシくん、冷たい…」
大人はその書類の量に一瞬げんなりとした顔をして、「昔のカカシくんは可愛かったのに」なんてぶつくさと文句を言っている。そのまま机に突っ伏して、いつまでも仕事をしようとしない大人に、カカシは盛大なため息を吐いた。「で、なんの話しですか」と諦めて大人に向き直ると、吐き出された言葉はまたなんとも摩訶不思議なもので、けれどもあとあとになって思い返してみると、これから起こる全ての出来事を予知していたかのような会話だった。
「周囲から尊敬されることと、厭われることは酷く似ていると思わないかい、カカシくん。どっちも孤独には違いない」
「あなたはいきなり何を言いだしているんですか」
「おかしいかな?ボクは確かに人間のはずなのに、里の人たちから送られる視線を浴びていると、たまにそうではない存在なのかもしれないと思えてしまう時があるんだよ」
ミナトは苦笑して窓の外に視線を移した。
「ボクは神様になんてなりたくないんだ」
「何を唐突に…」
「ボクは、自分が特別だと言われるたびに隔たりを作られているとしか思えない。ボクだって、失敗だってするし、時には落ち込むことだってある。ああすれば良かった、こうすれば良かったなんて後悔は挙げていけば多過ぎてキリがないし、それと同時に、ちょっとしたことに幸福だって感じるし、クシナとカカシくんは家族で大事で大切で愛している。どうだい、ボクと他の人間との差異なんてどこにあるのだろう。なのに、周りの人間はボクを完全無欠の超人のように見るんだよ」
「火影様の贅沢な悩みですね」
「そうかな?そう言われると辛いね」
当時のミナトは完璧な人間だった。里の誰もが、ミナトを慕っていた。それは火影としても破格な扱いで、彼が里を歩くと、彼を褒め称える賞賛の言葉と共に時には感嘆のため息すら聞こえてきた。存在自体が奇跡みたいな人だった。彼が火影としての執務を行った数年間は未だ木の葉の黄金期として語り継がれている。どんな問題も、無理だと諦められていたことも、ミナトが乗り出した途端に解決した。風のようだとカカシはいつも思っていた。誰も思いつかない方法で、だけど終わってみればその判断が一番最良であったのだと誰もが納得せざる終えない結果を残し困難を乗り越えてしまう。カカシたち部下はただ彼の背中を見ているだけだった。そう、確かに全ての人々が彼に魅せられていた。
「何が正しいのか、何か正しいのか。誰にもわからないじゃないか。目の前にいる人はけして神様なんかじゃないんだよ。みんなただの人間なんだ。それをけして忘れないで欲しい」
カカシくんは覚えておいてね、と師は笑った。
だけどカカシは「なんのことか意味がわかりません、書類片付けたらどうですか」と冷淡に切り返した。「そうかい」と呟いた師は執務机に向かい直るとひたすらに手を動かし始めた。カカシはそれを見ているだけで、ただただ沈黙。積まれた書類が半分ほど右から左へ移動したところで、ミナトは背を反らし伸びをした。
ああ、そうだ。必死に書類に追われる師の後ろ姿は確かに人間で、人智を超えたものでも何でもない正真正銘自分と同じ人間だったはずなのに。
カカシは師の言葉の意味を理解しようとしなかった。
去り際に、カカシくんと師から呼ばれた。
「いつかボクが人間と思えたなら、それは喪失ではないよ」
カカシは幾分か躊躇ったあと、結局なにも言うことができずに執務室のドアを閉めた。
瞼が熱かった。とめどめなく溢れるそれは涙だった。カカシの涙腺は壊れてしまったみたいだ。
「神様になんてなりたくないと言ったのはあなたじゃないか」
言ってることと、やっていることが違います、と吐き捨てて地面を叩く。ああそうだ。貴方は人間だ、人間だったんだ。だから帰ってきて下さい。自分の中でそう叫べば、それと同時に言いようのない哀しみに襲われた。
きっとあの人はいつか来るだろうこの日を危惧していたに違いない。人の親でいるよりも、里のために英雄になってしまう自分のことを。
だから言ったんだ、自分は神様になんてなりたくないと。せめて、カカシにだけでも本当の弱音を吐いたのだ。
「あの大馬鹿野郎が」
聞き慣れた悪態が聞こえた。
「自分のガキを犠牲にしやがった」
シカクが立っていた。彼の背後で赤ん坊の泣き声がガンガンと頭に響く。見ると三代目が見知らぬ赤子を抱きかかえていた。
「九尾を自分のガキに背負わせやがった。馬鹿だよ、あいつは。稀代の大馬鹿野郎だ」
「シカクさん…」
カカシは目の前の男を見上げた。
「皮肉なもんだな。この騒ぎのせいでお偉方が何人かが欠けちまってやっとオレにお鉢が回ってきたらしい。せいぜいこの災害の尻拭いでもさせてもらうぜ。なんて云ったって待ち望んだ絶好の機会だ」
「…あんた、こんな時に!」
「ばぁか。こんな時だからだろ。里を見ろよ。壊滅状態だ。今、この状態で他里から攻められてみろ、いちころだぞ。オレが今一番にやることはこの里の復興作業だ。泣いてる暇があったら、働けバカモノ。――少なくとも、あいつだったらそうするはずだ」
涙にくれてるうちに里が攻め滅ぼされましたなんて洒落にならねーだろ、と顰められた眉は辛そうで、彼は本当は大泣きしたいのかもしれない。
火の点いたように泣き喚く赤ん坊は己の両親を失ったことを知っているのだろうか。生まれてすぐに災厄を腹の中に閉じ込めた赤ん坊のことをカカシはぼんやりと思った。
「三代目様!」
老人の元に数名の忍が駆けて来る。
「大変です、通信部からの連絡で国境付近で不穏な動きがあるそうです」
「なんじゃと」
「……早速お出ましか」
周囲がざわめいている。指針を失った里は今や混乱の最中にあるのだろう。
カカシはゆっくりと立ち上がった。涙はすでに枯れていた。
「…三代目。オレを送ってください」
「カカシ、おぬし」
カカシは自ら老人の元に駆け寄った。
「お願いします。オレが適任です。今、あそこで一番動ける忍はオレでしょう。それともあなたはまだオレを足りぬ、と言いますか」
カカシの顔に浮かんだ決意に、何を言ってもダメだと思ったのか老人は諦めたように深いため息を落とした。
「――わかった。はたけカカシ。これよりおぬしに国境警備を命ずる」
「御意」
「しかしの、カカシ。やはりおぬしは足りぬよ。おぬしはー…」
里長の危惧は現実となり「死にたがり」とカカシが呼ばれるようになったのはもう少し先の話。
おい、と去り際にシカクに呼び止められた。「いいか、死ぬことは許さない。生きれ。生きて帰ってこい――カカシ」シカクの言葉にカカシは僅かに目を見開く。
「オレにはあいつが命がけで守ったものを守り通す通す責任がある」
それにカカシが入っていると言うのだろうか。あの優しい人の庇護の中に。カカシにはわからない。
「ありがとう、シカクさん。だけどオレは――」
結局、生きて帰ってこい、という言葉に答えることなく、カカシは背を向け、里外へ向かって疾走した。
「周囲から尊敬されることと、厭われることは酷く似ていると思わないかい、カカシくん。どっちも孤独には違いない」
貴方はそう言ってましたね。あとになって貴方の言葉の意味がわかりました。九尾の器として里人から遠巻きにされるあの子の背中はただの人でしかないのだと、オレは確かに知ることができのだから。
貴方はもういない。
……――ゆっくりと、カカシは長い夢から覚醒した。爽やかな風が吹く。見上げればなんとものどかな青空が広がっていた。
「……」
くぁぁとあくびを噛み殺していると、ガタガタとけたたましい音が近付いてきた。
「あー!カカシ先生、やっぱりここにいたっ」
今日はホットケーキの日だっていったじゃん!お手伝いしなきゃいけないんだぞ、と騒がしい子供が屋根の上に上がってくる。「そーだっけ、忘れてた」といえば、子供は「信じらんねー」と口をひん曲げた。
「カカシ先生!サクラちゃんが怒られるってばよ。てゆーかなんで毎回オレんちの屋根の上で昼寝するんだってば!?」
プリプリと腕を組んで「オレは怒ってますよ」のポーズ。「だって気持ちいいじゃん」とダメダメな発言をするカカシに子供はがっくりと肩を落とす。それに、ここにいればおまえが探しに来てくれるからねとこっそり心の中で付け足して、舌を出す。おまえが怒るから言わないけどね、秘密、秘密。やがてカカシのそんな内心も知らず「しょーがねーカカシ先生だなー」とぽすんっと腹にダイビングしてくる子供。重いよ、と言えば「いいじゃん」とあっさり返された。
「みてみて四葉のクローバー!」
太陽を背にして子供が自慢げに緑色を差し出してくる。ちっちゃな手には紛れもなく四つ葉に別れたクローバーが握られていた。そういえばこの間「四葉のクローバーを見つけたら幸せになれる」なんてベタな迷信をこの子供に吹き込んだかもしれない、と思い出しつつ「ふうん。で、どこにあったの?」とカカシは起き上がりながら、じゃれついてきたどろんこのひだまりを抱きとめる。
「それが、意外と近くにあったんだって!」
にかーと笑いながら子供がカカシを見上げてくる。黄金色の子供。あの人と同じ色彩。だけど、違う存在――
「これ、カカシ先生にあげる!」
「え。いいよ、せっかく見つけたんだろ」
「いいの、これカカシ先生のだから!」
だから、はい!っと満面の笑顔で差し出される。
「……」
カカシは馬鹿みたいに四葉のクローバーと子供を見つめた。そよそよと黄金が風にたなびいている。遠くで「ナルトォ?カカシ先生みつかったぁ?」と声がしたけれど、カカシはただ、目の前の黄金に縫いとめられていた。
「…うん、ありがとう……ナルト」
「どーいたしまして!」
ほら、はやくいこーっと引っ張り起こされる。カカシはふらつきながらも立ち上がり、空を見上げた。――先生。貴方が残してくれたひだまりがこんなにもあたたかい。
いつか憧れた貴方ではないけれど、オレはみつけましたよ。みつけてしまったんです。里の業を背負ったこの子は、だけど確かに人で、真っ直ぐすぎて時々オレには眩しすぎるんだけど
「……――」
さよなら、オレの神さま。愛してるよ、オレの――…
end
home sweet home
四代目+カカシのちのカカナル
四代目+カカシのちのカカナル
別段、普段通りに任務を終え自宅の敷居を跨げば、家の中で父が自殺していた。はたけサクモが自殺した日は、里でも稀に見るほどの猛暑で、彼の死体は死後半日しか経っていなかったというのにすでに腐敗臭が漂っていた。音もなく嗅いも残らないというのが、忍の最後の姿であるというならば、咽をクナイで掻っ切って死んだ父の死体は酷く生々しいものだった。
彼の一人息子であるカカシは、ただ茫然と畳の上に広がる赤を見降ろしうつむいた。父に任務の成果を褒めて欲しかったが、彼は咽を真一文字に切ってしまったため、二度と口を開くことはできなかった。それが、カカシには酷く残念なことであった。
「父さん。どうしてオレを置いていったの?」
ぽつりと薄暗い部屋で呟いてみたが、答えてくれる人はいない。まだ幼かったカカシは、物言わぬ亡骸を前に呆然と立ち尽くした。
はたけサクモの遺体は葬儀を挙げることもなく、誰に知られることもなく、暗部等によって迅速に処理された。終わってしまえばなるほど呆気なく、これが白い牙と呼ばれた忍の最後なのかと戸惑うほど世間から注目もされない末路だった。
唯一カカシの手元に残されたものはたった一刀のチャクラ刀だけで、父の忍具が入った引き出しの中身も、いつも綺麗に折り畳まれていた忍服も、最後に亡骸が横たわっていた畳すら剥がされ、遺品は全て暗部によって没収された。
まるで初めから何もいなかったように父の存在は消去されてしまったのだ。
「ねぇ。あそこのお家の上忍のはたけさん、自殺らしいわ。ほら、任務で負傷して以来いつも縁側にいた人よ」
「あらまぁ、それはお気の毒にねぇ。残された子も可哀想に。まだ十歳にもなっていないのにねぇ」
「でも、仕方ない話かもしれないわね。ほら、何しろ裏切り者の…」
そこで主婦等の声のトーンが低くなり、任務を終え帰路に着こうとしていたカカシの耳は否がおうにも彼女等の言葉を拾う。
「ああ、裏切り者の子供なのね」
「酷い話よねぇ。子供に罪はないと言うけどねぇ」
言うがどうなのか。本当に哀れだと思うのならば、買い物のついでの道端で会話の種に出来るものではないだろう。同情しているという声色とは裏腹に物見高い好奇心を抑えきれない様子は人の不幸な話に集る蟻のようだとさえ思う。ギロリと睨みつけてやれば、主婦等は短い悲鳴をあげた。
「子供のくせに可愛げのない子ね!」
怯えたような視線と罵りの言葉を残して去っていく集団。カカシは無言のままその場を立ち去る。
道を歩いていると、額に何かがぶつかりそうになり片手で受け止めると、それは熟し既に腐ったトマトだった。気配を追いかければ、数人の足音。
今、この里の中にあってカカシという子供は異物なのだろう。異物を排除する時の人間の醜さに吐き気すらする。彼等はきっと正しいことをしていると思っているに違いない。里の秩序を乱す裏切り者の子供。害悪にしかならない〝それ〟を取り除く。なんと立派で善良な里人様方だろうか。ーーーうるさい、うるさい、黙れ、放っておいてくれ。当時のカカシにとって里での毎日はぐるぐると渦巻く悪意の渦中だった。
金髪の青年が玄関先に立っていたのは父の死後から二週間は経とうとした昼下がりだった。
カカシは太陽の日差しを浴びて輝く金色に暫し目を細めた。
「きみがはたけカカシくんかな」
「あんた、誰」
「ボクはサクモさんの古くからの知り合いでね。昔、きみのお父さんにはとてもお世話になったんだよ」
恐ろしく綺麗な顔の優男。それがカカシの青年に対する第一印象だった。
「来るのが遅れてしまったけれど、サクモさんにお線香をあげたくて」
青年は里指定のベストを着用していることから察するに中忍か上忍なのだろう。だというのに実力のある忍にはまったく見えなかった。
「骨なんてないのに?」
カカシは思わず見知らぬ大人を嘲笑した。目上のものにすら生意気な態度を取っていたカカシはこの時、既に忍として任務に就いていた。もう一人前なのだという自負が少年にはあったのだ。
「あんた、忍の世界のしきたりを知らないわけでもないでしょーよ」
何故だか急に全てが馬鹿らしかった。八つ当たりだとわかっていたが青年を包む何かが無性にカカシを苛立たせた。
「カカシくん。人が一人死んで何も残らなかったなんてことないんだよ」
そんなカカシの様子に青年は痛ましそうに眉の根を潜めた。今思えばそれが彼の優しさだったのだが当時のカカシがわかるはずもない。
「ちょ、ちょっと。なんで勝手に家に入ってるわけ?待てよ!」
はっとした時には青年は無遠慮に玄関を跨ぎ、廊下を歩いて行く。まるで勝手を知りつくしているような迷いのない足取りに、なるほど先程の「父の古くからの知り合い」という言葉は本当で、青年は何度となくこの家に来たことがあるのだろう。しかし今はこの男が父とどういう関係であったのかなんてどうでも良く、ただ、ただ、父と己が暮らしたこの家に他人が侵入することが許し難かった。
「入るな!」
カカシの絶叫に近い制止の声に青年はちょっと困ったように肩を竦め「ごめんね」と笑った。青年は台所を通り過ぎ、そのまま居間の奥にある父の部屋に踏み込みーーー…そしてしばらく、空っぽになった縁側を眺めた。
「わかっただろ。この家に父さんの残したものなんて何も残っていやしないんだよ!」
ここに故人の残したものはない。さぞや満足しただろうと大人を見上げる。しかし、そこにあったのはぬるま湯のような微笑みで、青年の酷く優しい眼差しがカカシにはただただ不快だった。
「これがサクモさんの見ていた風景なんだね。サクモさんは庭が好きだった」
「あんたに父さんの何がわかる!」
青年は何かに思いを馳せるように縁側を眺めている。
「サクモさんは何も残さなかったと言ったね」
「ああそうだよ」
「きみがいる」
「は?」
「ボクはきみの後継人として生前にサクモさんからきみのことを任せられたんだよ」
「嘘だ...」
途端に眩暈を感じた。立っていた床がぐにゃりと曲がり、カカシは膝を付いた。呆然として床に座り込むカカシに青年の手が伸びかけたが、
「来るな!」
思っていたより悲鳴に近い怒鳴り声になり驚いたのはむしろカカシ自身だった。「出ていけ!出ていけ!出ていけ!」咄嗟にチャクラ刀を青年に向ける。
「何が目的だ。帰れよ。ここは父さんとオレの家なんだ!」
「カカシくん。ボクはーー…」
「うるさい!」
刃物を向けられれば誰しも身構えるものだろう。だが、目の前の男はチャクラ刃をかざしても怯えるどころか、近付いてきた。なんなのだこいつは、気持ち悪い笑みを浮かべて、父さんの知り合いだなんて今頃やって来て、こんな弱そうな男が後継人だなんて悪い冗談だ。得体の知れない男にカカシは動揺を隠せない。当時まだ幼かったカカシは父と自分だけで完結していた世界に突如として現れた侵入者を排除しようと躍起になっていた。
「カカシくん。ボクはきみから何も取り上げるつもりはない。だから安心して欲しい」
「ひっ」
カカシはひたすら恐怖した。そんなカカシを見透かすように優しい手は刃物を突き出したカカシの手ごと包み込む。混乱するカカシと視線を合わせるため膝を曲げた青年は己の手の平から滴る血を気にも止めずに微笑んだ。
「ボクはきみを迎えに来たんだ」
だから行こう?
これがカカシの導き手となりのちに四代目火影となる大人との初めての出会いだったのだが、カカシは生涯その背中を追いかけ続けることになるとも知らずに、にこやかな笑みを讃えた大人の手を拒絶して振り払った。
「オレは父さんに捨てられたのか?」
独り言めいたカカシの問いに青年は何も言わずに沈黙した。答えはそれだけで十分だった。
「これはまた随分な怪我よのう」
「ははは。お気遣いなく。名誉の負傷です。ね!カカシくん!」
ん!と笑いかける青年の視線から逃れるようにカカシは顔を背ける。
「ワシには随分一方的に見えるがの」
「あっはっはっ」
「まぁ良い」
呆れたような物言いの老人はそれ以上怪我の理由を追求しようとはせずに金髪の青年の隣に立っているカカシに視線を注いだ。青年に連れられ通されたのは薄暗い会議室で、執務机に座った十人ほどの大人の顔は暗い室内のせいか影になって見えなかった。
「して、おぬしはこやつをどう見る?」
「優秀で聡明な子です。流石はサクモさんの息子ですね」
「ほほう。随分、高く評価しておるの。ワシにはちと足りぬように見えるがの」
カカシは先ほどから執務机の真ん中にいる老人が里長であると気が付いた。
「ガキだな」
にべもなく切り捨てたのは黒髪を一括りにした人相の悪い男だ。面倒そうに資料を捲る男に「子供なんかではない」と睨み付けるが、おそらく相手の言葉にいちいち腹を立てていた辺りが彼のいう「ガキ」だったのだろう。
「それにしてもおぬしが師にのう。既にこの少年には必要ないように思えるがの?」
「いえ、導き手は必要でしょう」
隣に立つ青年は先ほどとは打って変わって背筋を伸ばしている。カカシはどうやらこの場で自分の今後の身の振り方が決まるらしいと感じていたが、何も言い出せずにいた。
「まったく、父親の自殺の件だけでも厄介だというのに次は息子か」
誰かが鬱陶しそうにため息を吐いた。
「息子の方は欠陥品ではないだろうな」
「あのガラクタめ、忍ならば任務で死ぬのが本望であろうに、おめおめと生き残ったあげく生き恥を晒して、とんだお荷物まで残していったわけか」
まったくだと幾つかの賛同の声が上がる。一瞬、ガラクタという単語が何を指しているのかわからずにカカシは黙り込んだが、「ただの道具風情が余計な手間をかけたものだ」と続いた言葉にガラクタと言われているのは父のことなのだと気が付いた。
「あんたら大人が父さんを殺したんだろ…!」
隣の青年が前に乗り出したカカシを止めようとした気配があったが、身勝手なことばかりいう大人の心ない言葉に、態度に、視線に、子供というだけで周りに流されるしかない自分が悔しくてやるせなくて我慢ができなかった。
「あんたらが父さんを追い詰めたんだ」
サクモは里の掟を破り任務の遂行よりも仲間の命を優先させた。結果、サクモは裏切者と罵られ、ついには助けた仲間にさえ中傷された。またその時に負った怪我が原因で日常生活に差し障りはないが、任務への復帰は絶望的とされたらしい。第一線を退いたかつての英雄に周囲の反応は冷たかった。陰口は憚ることなく囁かれ、父にはそれが耐え切れなかったのだろうとカカシは思う。
「あんたらが!あんたらのせいで!」当時のカカシにとって目の前の大人たちこそすべての小悪の根源のように思えてならなかった。
「ふん。道具が壊れれば捨てるまで。役に立たなくなったガラクタを用済みとして何が悪い?」
執務机から笑いが起こると同時にカカシは男の後ろに回るべく、クナイを出した。忍でもない一般人だろう彼等の不意を突くことなどカカシには容易いことだった。
「このガキ!」
慌てふためく輩に笑って、床を蹴り上げる。
「ん!そこまでだよ、カカシくん」
広い背中が颯爽とカカシの前に立ちふさがり、いつの間にかカカシに向けられた複数のクナイから守っていた。
「きみの言うことにも一理あるけどね、暴力は良くないよ」
青年はやんわりと動物面を被った男たちのクナイを引くように目配せすると執務机の大人たちに向かい合った。
「皆さんも言い過ぎです」
涼やかな、だけど抑止力のある声だった。
「どうでしょう、皆さん。私が公私ともに彼を引き取ります。この子のことは私に一任していただけないでしょうか」
高らかな宣言に、「馬鹿な」「きみがか」と場がざわめいた。
「ええ、私が責任を持って預かります」
「きみはまだ結婚もしていなかったはずだが」
「そうだ。独り身で若いきみがいきなりこんな子供を預かれるかね」
「いえ、先に申しました通り彼のお父さんには生前お世話になったので、どうかこの子の面倒は私にお任せください」
ニコニコと笑いながら強引にことを進めるのは実を言うとのちに四代目と呼ばれるこの大人の十八番で、彼は優男という言葉が似合う外見に反して、どこまでも自分の意見はきっちり通す人であった。
「間違いなく私がこの里で一番適任でしょう」
反論するものはもう誰もいなかった。彼は有無を言わさない強引さで周りを巻き込み、尚且つそれを実行してしまう実力を持っていた。あとにも先にも四代目ほど「天才」という言葉が似合う人はいないとカカシは思ったものだ。
調子っぱずれな鼻歌を口ずさむ青年はもしかしなくても音痴だった。火影邸の会議室からの帰り道、強引に手を引かれたカカシは訝しげに青年を見上げた。
「あんたは馬鹿なのか」
「そうだね、友人にもよく言われるよ」
当時、端正な容姿からマダムキラーの名を欲しいままにしていた彼は、道行くだけで女性陣に声を掛けられていた。次々と渡されるプラスチックの容器は各家庭の夕飯のお裾分けが入っていた。忍だというのにほいほいと手料理を受け取ってることに呆れつつ、「痛…!」と何もないところで躓くまぬけな後ろ姿は先ほど自分に向けられた暗部の攻撃を防いでくれたのは錯覚だったのかと疑うほどだ。
「カカシくん。さぁ、遠慮しないでどんどん食べちゃって!」
青年はアパートに住んでいた。他に家人が住んでいる様子がないので一人暮らしのようである。カカシはテーブルに並べられた料理からふいと視線を逸らした。
「あれ。カカシくん、お腹空いてない?それとも何か嫌いなものがあった?」
「別にいらない」
「だめだよ、ちゃんと食べないと大きくなれないよ」
小さな子供に話しかけるような面差しだ。実際にカカシは当時「小さな子供」だったのだが、自分ではもう一人前のつもりだったカカシはガキ扱いするな、と言いかけて、こんな男と低レベルな口げんかをするのも馬鹿らしいと思いやめる。
「カカシくーん、ボクの話を聞いてるー?無視しないでー」
「………」
滑稽に己のご機嫌取りをする青年を無視しカカシは自分はなんでここにいるんだろうかとぼんやり考えた。
「ミナト、邪魔するぞ」
玄関の戸を足で開け、ずかずかと入ってきたのは黒髪を束ねた人相の悪い男だった。「おまえ。なんでここにっ」カカシを先ほど「ガキだな」と評した男だ。咄嗟に殺気立つカカシを尻目に男は青年と子供を見比べて「心配して来てみればやっぱりな」と呟いた。
「やぁ、シカク。随分と遅かったね」
「誰かさんが会議室を引っ掻き回してくれたおかげで無駄に時間を食ってな。ったく、フォローするこっちの身にもなれってんだ」
シカクと呼ばれた男がちらりとカカシを見る。射抜く視線に自然を身体が強張った。
「あ・と・な。おまえはなんだってまた怪我してやってくるんだよ。まさか刃物でも直接握ったわけじゃねーよな」
「ははは、正解。流石はシカク」
「笑い事じゃねーよ、馬鹿が!」
親しげに掛け合いを始める大人たちにカカシは「どういうことだ」と叫びだしたくなるのを堪えた。なぜ、この大人は父を侮辱した奴なんかと仲良くしているのか混乱するには十分でカカシは裏切られたような気分で青年を見た。
「おい、あんた…この男と仲間なのか!」
青年に詰め寄ると代わりにシカクがカカシを睨んだ。
「〝あんた〟?おまえさん、目上の大人に対する口の利き方も知らねぇのか。失礼な奴だな」
シカクの言葉にカカシはむっとしたように唇を引き結んだ。
「失礼も何もオレはまだあんたたちの名前を知らない」
「はぁ?おまえまだ名乗ってもいなかったのかよ?」
「あ、そういえば」
「はー…、オレはちょっとこのガキに同情したぞ。相変わらず抜けてるなおまえは」
呆れた様子のシカクの隣では、金髪の青年が困ったように頭を掻いている。
「自己紹介が遅れたけどボクはミナト。よろしくね、カカシくん」
腰を屈め、カカシの頭を撫でた大人を無言で睨んでいると横の男がすかさず突っ込んだ。
「馬鹿が、それじゃぁわからないだろ。こいつは上忍の波風ミナトだ。こんな風体でも見縊るなよ?次期火影候補だ。話しくらい聞いたことがあるだろ?」
カカシは絶句して目の前の優男と向き直った。信じられなかった。火影候補といえば、忍の中でもトップ中のトップを誇る実力者だ。
「ちなみにオレは奈良シカク。同じく上忍でまぁこいつの頭脳担当ってとこだ」
「よく揉め事も起こす火影候補様だけどな」と何かを思い出したのかシカクが口の端を上げてくくくっと笑いを噛み殺す。
「ったく。またお偉方がえらく騒いでいたぞ。四代目候補様はペドフェリアにでもなったのかってな」
「邪推だね」
「ああ、相変わらずくそめんどくせぇよ」
「まぁ、そこらへんの立ち回りは誰よりもきみを信頼しているよ。シカク、いつも迷惑ばかりかけてすまないね」
「あー!くそ!おめーは本当にタチの悪い人ったらしだよ、面倒臭い」
ガシガシと頭を掻き回したシカクは「それにしても」と言った。
「今日はよく耐えたな。オレはおまえがいつお偉方に楯突くかとヒヤヒヤしていたぞ。サクモさんの話になった時はおまえのことだから真っ先に飛び出して行くと思ったが…」
「あぁ、あの人ら相手にある程度の侮辱は想定していたからね。流石に酷くて何度か殴ってやろうかと思ったけど」
「おい…」
「でも聞く耳を持たない人たちに何を話しても無駄でしょ?」
「相変わらずいい性格してるよ、おまえは。気をつけろよ?上に目を付けられても知らねーぞオレは」
「まぁ一番我慢していたのはカカシくんなのにオレが怒りつけるわけにもいかないでしょ?」
そう言って金髪の青年はカカシに微笑んだ。当時はわからなかったが、あとになって四代目となる彼の気性を知るにつれ、納得した。あの時、ミナトはカカシが思っているよりもずっと怒っていたのかもしれない。サクモを死に至らしめた原因についても、周囲の対応についても。そして、友人のシカクはそれを十分に理解していたのだろう。
シカクはカカシを改めて見ると表情を引き締めた。
「オレは、おまえがガキを預かることには反対だ。わかってたとは思うが、今日はそれを言いに来た」
カカシにはある程度、予想はついた答えだった。ああそうだよな、とだけ思う。むしろ男の言葉の真っ当さにほっとしたくらいだ。
「親がどうしても必要だという年齢でもないし、施設にでも預ければいいだろ。今、自分がどれだけ大事な時期にいるのかわかってるのか?ガキの面倒なんて見てる場合じゃないだろ。いいか、こいつの存在はおまえにとってマイナス点にしかならない。不穏な要素はできるだけ取り除けってイヤってほど忠告したはずだ。何に足元を掬われるかわからないからな。おまえが、こいつの父親に恩義を感じてるのもわかる。が、同情だけで子育てができるほど世の中甘くないんだよ」
カカシは知る由もないが、この時ミナトは旧体制を崩し火影に就任すべく各方面に奔走していた。しかし、年齢が若すぎることもあり経験不足ではないかと一部の重鎮からの風当たりが強かったのだ。この時、シカクはそのことを指摘していた。
しかし友人の真剣な眼差しを流すかのように、大きな手が突然カカシの頭を撫ぜた。
「オレは、今ここでこの子を放り出したら、エラい奴になんてなっちゃいけない気がするんだよ」
「どういうことだ?…おまえが火影に就任する話はもう秒読み段階なんだぞ」
「一人の子供を助けられなくて、どうして人の上に立てるっていうんだい?オレはそんな人間になるつもりなんてないんだよ」
「おまえは本当に…糞面倒臭い性格だよな」
おまえは馬鹿だ、と言いながらも男はどこか嬉しそうだった。あるいは自分が信じてついて行く人間はやはりこの男においていないのだとでも思ったのかもしれない。この二人は長く苦楽を共にしてきたのだろう。
つまり邪魔者は、余り者は、自分なのだ。カカシは一歩、また一歩、大人たちから遠ざかる。
「あーっサクモさんもなんだってこんな時に、くそっ本当にサイテーのタイミングだな…」
「ちょっと、シカク。その言い方はーーー…」
「どういうことだよ、サイテーのタイミングって。あんた、父さんをなんだと思ってるんだ。おまえこそ何様だっ。」
その時、シカクの顔に浮かんだ表情を察するにはまだカカシは幼すぎたのだろう。だから言葉の通りに物事を捉えた。
「は。役にも立たないガキが偉そうにするんじゃねーよ」
「!」
耐えきれなくなりカカシはアパートを飛び出した。
ひゅんひゅんと景色はカカシの後ろに飛んで行く。冷気に強張った頬を生暖かい何かが伝った。
散文です。
糖蜜の病い
スーパーの袋を片手にアパートの階段を登って行くと、廊下の先に大人が落ちていた。ああ、明日は粗大ゴミの日ではないのになぁというようなことをぼんやりと考えて、はぁーと白い息を冬空に流す。里の真ん中にいる最高権力者の老人に頼んだら、この大人を撤去してくれるだろうか、と考えて否。きっとあの老人のことだからいかにも重大な案件のように気難しそうにパイプを燻らせて、…それだけで終わるに違いないと思った。里指折りの上忍の私生活における奇行を、一介の下忍に過ぎない自分がいくら訴えたところで黙殺されるのは必至で、子供は里のヒエラルキー事情にそっと肩を落とした。
「カカシ先生、いつからそこにいたんだってば」
「ナルトが帰ってくると思って…」
それだけ言うと、ぱったりと大人は息絶えた。ぼろっとした格好から察するにきっと任務帰りなのだろう。ぼさぼさの銀髪が冷えた空気の中で反射していて、それだけがやけに綺麗だった。
「重…」
大人をずるずる引き摺って部屋にあげて埃っぽいベストを脱がせる。首のところを引っ張ってしまったので、いっそうカカシの忍服はよれよれになってしまったが、そんなことを気にしていたのは最初の一回か二回目くらいで、大人が任務終わりのたびにナルトの家に転がり込むようになってからは後始末の手順も自然と手慣れていって扱いも雑になった。
「カカシ先生、上向くってばよ」
「ん…」
手始めに大人の口布に指をかけ、額当てをぽいっと投げる。紺地のマスクの下から現れたのは色を無くした端正な顔だちで、ナルトの帰りを待って長いあいだ外気に晒されていたのだろう。こんなふうになるくらいなら、勝手に不法侵入でもして家にあがっていればいいのにと思うが、この非常識な大人はそれでも傾いた常識の定規で何かを推し量っているらしく、ナルトからの許可があるまで家には入らない。
「三日ぶりのナルトだぁ」
「………」
カカシが力なく笑ったのでナルトは挟んでいた両頬をぱっと離した。
カカシが素顔を見せてくれるようになったのはいつからだろう。こうしてナルトの家に姿を表すようになった頃はまだ覆面をしたままだった。いったいいつから彼はこんな無防備な微笑みをナルトに向けてくるようになっただろうか。
「あーもーカカシ先生。どうせシャワーまだなんだろ。タオルと石鹸持ってさっさと風呂入る!まずはそれからだってば!」
「ん……」
追い立てるように背中を押すと気の抜けた返事をしてカカシはナルトの指示通り脱衣所に向かう。その後ろ姿を見送り、ナルトはカカシのベストや上服をまとめて掴みビニール袋にいれる。勢いのまま大人のクナイをいれたポーチを持ち上げようとすると、急に視界が暗くなって頭上からぬぅっと手が伸びてきた。
「これは汚いからさわっちゃ、め」
「………」
いつに間にか風呂場に行ったはずのカカシが戻ってきていた。〝めっ〟ではない。そういう場合ではないのだが、ナルトは大人から取り上げられたポーチをぼんやりと見上げた。ナルトから離すように背中を向けてクナイを持つカカシの手付きはとても手慣れていて、…こういうところはしっかり上忍なのだと思う。
「クナイは乱暴に扱っちゃだーめデショ。わかった?」
「わ、わかってるってば。ちゃんと〝きおつけて〟持ってたってばよ!」
「うそ。いまちょっと集中力切れてたデショ?」
「………」
手元が乱暴になっていたのは事実だったのでナルトは口を噤んだ。任務終わりの血が付着したクナイ。とくにカカシのような上忍の使ったクナイは敵の忍の血がついており、うっかり触って指を切ったりすると感染症になることもあるのだという。
他人の血液ほど怖いものはない。信用のおける人間ならいざ知らず、他里の忍などどんな病気を罹患しているか定かではない。
だから、せんじょー、じょきんを欠かしてはいけない。小さな擦り傷から雑菌が入り込みびょーきになることもあるそうだから、手はせーけつを保って、綺麗に。
いつだったかは乾燥をしないようにとはんどくりーむを塗ってくれたこともあった。乾燥して裂けたところがあると感染の原因になりいざという時に危ないのだという。
「こういうケアを日頃から怠らないこと。とくにオレたちの職業はそれで命に差がつくから」
まるでそれで一度は仲間を失くしたかのような言い方だったから深くは聞けなかった。そのあとにナルトの手を持ったままカカシが動かなくなったので、ぺしんと叩いておいたが。
だけどカカシと接するようになって熟練の忍の手はささくれ一つなく綺麗なのだということを知った。
「ナルトは手当てをする習慣をつけないとねぇ…」
応急処置の話だとか煎じ薬の話だとかカカシは難しいことばかり言うのだが、どれもナルトにはいまいちピンとこない。ナルトのなかのものの存在を知っていて心配をするカカシを不思議に思うばかりだ。
怪我の痛みも、辛いはずの病熱もするするとナルトのすぐ横をすり抜けていく。
かさぶたが剥がれてしまう時の痛みをナルトは知らない。ナルトのなかの九尾はどういうわけか宿主にとても過保護だから、掠り傷ですらバンソーコーを貼る前に治してしまう。
もっともカカシに、ごーもんをした時の敵のしのびのとしゃぶつには気を付けること!だとかを可愛い犬をさわったあとは手を洗うこと!と同じ口調で言われた時はちょっとこの人ズレてるなぁと思ったものだが。
「ナルト。そのベストはもう捨てるから洗わなくていいからね?」
「あ、うん」
入浴を終えたカカシはゴミ袋の前でぼんやりしていたナルトに気が付いてこてんと首を傾げた。
血の付いた衣服はあとでまとめてアカデミーに持っていって廃棄業者が回収するようになっている。カカシのような上忍は頓着なく支給物を使えるらしく割り当てられる任務の過酷さに比例するように、支給品を消費するサイクルも早い。
忍服、ベスト、ポーチ、包帯、爪切り、カカシの身の回りの日用品は使い捨て可能な支給物ばかりで非常に身軽だ。
いつだったか、無造作に支給物を捨てるカカシの姿を見てしまったことがある。
ごとん、とゴミ箱の音がやけに耳に残って、今もどこかカカシに心許せないのは、あの軽さで自分も切り捨てられてしまうのではないかと思っているからかもしれない。執着も頓着もないくせにナルトに見せる笑顔だけは優しいから余計に怖くなる。いったい?なぜ?どうして?自分だけが彼の厳重に引かれたラインを踏み越えることを許されているのか、ナルトにはわからない。
「カカシ先生ぇ髪」
「んー…」
以前ナルトに叱られてから洗髪のあとにタオルを首にかけることは覚えたカカシだが、髪の毛の拭き方までは覚えなかったらしく、ポタポタと水滴を垂らしたままリビングの椅子に座ってしまう。ナルトはカカシの銀髪の頭をタオルで掻き回し、そのまま大型犬の世話をするように櫛を通した。一見、鋼のように硬質に見えるカカシの髪の毛は一定の硬さはあるものの、櫛を通せば案外すんなりとナルトの手に収まり、カカシは大人しくナルトのされるがままになる。
ナルトは一通りカカシの頭の水滴を拭き取ると、彼の前に作っておいた料理を並べた。
「いただきます」
お湯で干物を戻しただけのお茶漬けを前に、カカシはうれしそうだ。ナルトのような子供の手料理など高が知れていると思うのだが、カカシは好んでナルトに料理をリクエストする。もっとも、カップラーメンでも嬉々として食べている時があるので基準がわからない。
カカシのような大人ならきっと綺麗な女の人に頼んでいくらでも食事を作って貰えそうなものだが何故だかカカシはナルトのオンボロキッチンでできる料理を好む。
案外モテないのかもしれない、と考えた時もあったが、ナルトの前で素顔を晒す大人は性別問わず黄色い声が上がりそうなほどの綺麗な顔立ちで、まったくと言っていいほど釈然としなかった。伏せられた睫毛まで銀色なのだと思っていると、
「あ、ナス」
「それは、スーパーで安かったから、たまたまっ!」
突然カカシが瞳を瞬かせるものだがら声がワントーン高くなってしまった。テーブルの端に目立たないように小鉢で出していたのはナスの漬物だ。テレビの料理番組で案外簡単に出来ると知ったから、気まぐれで作ってみたのだ。それは大人の好物であったのだが、ナルト曰くたまたまらしい。
「うん、好きだなぁ」
「なっ?」
「好き」
ぎくしゃくと真っ赤になった子供を愛おしそうに見つめて、カカシは目を細めた。
「やっぱりオレはナルトが好きだよ」
へらっと大人は笑う。
「そ」
「そ?」
「そんなこと言ったってだめなんだからなっ」
「ああ、残念だなぁ。フラれちゃった」
ちっとも残念そうではない口ぶりで何がツボだったのかカカシはそのまま身体をコの字にして肩を揺すり出す。
「ねぇ、なぁーると」
甘ったるい声でカカシはナルトを呼んだ。
「ただいま」
「―――…っ」
毎回、毎回、この大人が玄関の前に行き倒れているわけを考える。忍としては隙になり得る姿を晒し、ナルトにだけは心許しているように笑うわけを。
この気持ちの置き場をまだナルトは知らない。だから今のところは任務帰りのカカシを拾い、こうしてテーブルを挟んで向かい合う。温かくなり始めた陽射しの中で、おかえりと小さく呟くとカカシはとてもうれしそうに笑った。
九尾すらもすり抜ける小さな炎症はじわりじわりと浸食を繰り返しやがて熱を灯すのだろうか。
もしも家族!
子供の無邪気な手によって、ごわしゃーと犬用の皿に銀髪の頭が埋まった。くらりと全身の血の気が引くのを感じたカカシではあるが、しかし意識を飛ばしたところで目の前の現実が覆ることはない。
子供の乱暴な手付きによって犬用の皿にぐいぐいと頭を押さえ付けられているのは、カカシの姿形を模したボロボロの人形だ。いったいどうしてこんなことになったのか、はたけカカシは呆然として自分の部屋の中央付近に我がもの顔でいる摩訶不思議な物体を、5メートルほど離れた部屋の隅っこで恐ろしげに眺めていた。〝ソレ〟は先程まで物ごころ付いてから初めて来たカカシの部屋を珍しげに眺めていたのだが、その生物特有の順応の早さで、あっという間にカカシの部屋を占拠すると小さな暴君となり君臨したのであった。
(恨みますよ、センセイ…)
同盟国の視察任務と銘打った遅まきの新婚旅行に出かけた火影夫妻は、あろうことかまだよちよち歩きの我が子を弟子の元において行った。そんなわけで上忍寮はたけカカシの部屋は今現在、子供という名の悪魔に侵略されている。
「かーしくん」
残酷な方法でお気に入りの人形に食事を与え終えた子供は、ニシシーと笑ってカカシの元へと戻って来た。その手に持っているのは絵本だった。
「何、おまえ。もう絵本読めるようになったの。おいちょっと聞いてる?」
「あうー」
何故かわざわざカカシの横に座った子供は、じぃーと見開きのページを凝視していたと思えばニシシと口を吊り上げて、一言。
「かーしくん」
「はい?」
指差された絵本のページに描かれていたのは、灰色の鼠。どうやらこの絵本に登場するキャラクターのようだ。カカシは険しい顔で、灰色と赤い目の(何故か絵本の中の鼠も赤目のオッドアイである)鼠をマジマジと見降ろすともしやこれは自分のことを言っているのかという結論に辿り着いた。まぁ、クレヨンを主線とした灰色のソレは百歩ほど譲ってカカシの特徴を兼ね備えていなくもないが、カカシは苦い兵糧丸を噛み潰したかのような面持ちで項垂れた。
「かーしくん!」
「ちがーうよ」
「かーしくん!」
どうやら師の子供はまだ文字が読めないようで、ページをめくるたびに灰色鼠を見つけては「かーしくん」と指差している。
根が変に真面目な性格なのでこういうことは正確に言っておきたい。だが、カカシがいちいち訂正を入れるのがおかしいのか、子供はいっそう面白がって「かーしくん」と繰り返している。現役暗部の子守りなど、普通のお子様であったら大泣きしてしまう場面だろう。暗部の人間には隠し切れない独特の威圧感があるもので、普通の子供は暗部の人間が纏う〝死の匂い〟に怯えるものだ。しかしこのお子様ときたら素っ気ないカカシの態度もなんのその生来の豪胆さからか、はたまた乳飲み子の頃から血臭漂う任務帰りのカカシと接してきたためか泣き出すことも怯えることもない。
むしろ、定期的にぎゅっぎゅっとカカシの手を握ってくる小さな指の感触にカカシは戸惑いを覚える。
そういえば一度も絵本を読めとせがまれなかったな、とカカシは首を捻った。この子供の性格と年齢を考えるとてっきり大人に読んで欲しいと言いそうなものだが、お子様の取った行動はカカシの横で大好きな絵本を読むという行為。オレに「読んであげた」とか。はは、まさかねぇ…?
「カカシ、プリン買ってきた。それと菓子とジュースありったけと今夜のオレたちの酒とつまみ。頼まれてたちびっこのお泊りセット一式もちゃんと持って来たぞー」
元チームメイトがサンダルを蹴散らかしながら来た時、正直ほっとした。これ以上この子供と二人っきりはなんだか気まずいし、なによりてきぱきとした空気の彼は現在アカデミーの教師をしており、自分の何倍も子供の扱いに慣れている。
「よぉーちびっこ。元気にしてたかぁ。オビト兄ちゃんだぞ!」
うちはオビトは場の空気を変える不思議な男だ。その証拠にお子様は新たに現れた青年に興味を惹かれた様子でほへえと見上げてる。生粋の子供好きとはオビトのような奴のことを言うのだろう。オビトは慣れた動作で子供の目線まで屈みこむとわしゃわしゃと子供のひよこ頭を掻き回している。
「………」
カカシは子供の体温が去った空間を無言で見つめる。銀髪の箒頭が少し傾いだ。
「ナルト。オレの名前、ちゃんと言えるようになったか。オ、ビ、ト。いいか、オビト兄ちゃんだぞ。ちゃんと覚えるよーにこれ重要!」
「? かーしくん?かーしくんあっちってばよ?」
「ちがうって。オレはオ ビ ト」
「かーしくん?」
こて、と指をしゃぶりながら首を傾げる子供にうちはオビトはガックリと肩を落とし、「ま、いいか…」と碧いまなこの目の前に買い出しのビニール袋を差し出した。
「きゃーーー!!」
ビニール袋の中に所狭しと詰め込まれた大量の果汁ジュースを前に子供の歓喜の悲鳴があがる。そういえば子供の父親である師も酒よりジュースを好むお子様口の人だった(親子とはおかしなところばかり似るものだ)とカカシは一人ごちた。ジュース缶を前にした子供はそれはそれはご機嫌だった。カカシはぼんやりとその横顔を眺めると、元チームメイトの名前を呼んだ。
「あー、オビト。あとはおまえに任せた。こいつ、誰にでも懐くから、適当に相手しといてよ。オレはもうパスね」
そう、何もこのお子様の周りにいる大人は自分だけではないのだ。それこそ師の家には入れ換わり立ち替わり人が訪れる。カカシはその大勢の中のひとりに過ぎず、人見知りのないあの子供はきっと誰でも笑顔で迎え入れるのだろう。オビトがきたのだ、これで自分はお役御免だ。というのはいいわけで、自分の時よりも子供が無邪気に笑っているような気がしてしまうから、自己嫌悪に陥っただけだ。もそりもそりとポーチからクナイを取り出して、うん、やっぱり子供の相手をしているよりこっちのほうが落ち着く…と、背中を丸めてクナイを研いでいると、どしんと背中に小さな塊が突進した。
「え……」
「かーーーしくん」
ぴとっと背後に子供の体温を感じて、カカシはくないを研ぐ手を止めた。
「おーい、ナルト。兄ちゃんと遊ぼう。なっ、カカシはいま刃物持ってるから危ないぞ」
オビトがぶんぶんと手を振っている。しかし、ひよこ頭の子供は碧いまなこで真っ直ぐとカカシを見上げると、あい!とカカシの鼻先にアルミ缶を差し出した。
「かーしくん。これあげるってば。おれんじじゅーす。これってばかーしくんだいしゅきでしょー」
「は…」
おれんじじゅーすって、おまえ。というか、なんでそんなに一生懸命な顔なの。呆然と固まるカカシの背後で、「いや、それオレの買ってきたジュースなんだけどなー」とオビトが苦笑している声が聞こえる。
「それは…おまえの好きなものでしょ」
「う?」
わからない、というようにこてんと首を傾げたお子様は大好きなジュースとカカシを見比べたあと、両手を差し出した。
「これ、あげるってば!おれんじじゅーす!」
「………」
「これ、かーしくんだいしゅきでしょ。かーしくんにあげるってばよ」
一生懸命伸ばされた腕があまりにも真っ直ぐで、この屈託ない手に逆らうすべをカカシは知らなかった。
いつの間にかカカシはお子様用の甘味飲料を握っていた。
「それってばかーしくんおれんじじゅーす」
「………」
「かーしくんよかったってばねー」
「………」
「かーしくん?」
「…うん」
うんってなんだ、おまえはいったい何歳だ?何歳児相手に「うん」だなんて子供のようになんの芸もなく頷いてるんだ。
「これ、かーしくんの。あい、これもってば。おれんじあじに、りんごじあじ、もものあじ、いっぱいってばよー」
カカシが受け取ったことに気を良くしたのかお子様は嬉々とした様子で、カカシの周りに色とりどりの缶ジュースを並べていく。
「いや、おまえ、の、飲む分なくなるデショ…ていうかいっぺんにこんなに飲めないからね?」
「う?」
「ほら、これ…おまえの…ね。落とすなよ?ちゃんと持てよ?」
「おう。ありがとうってば!」
いや、おまえがくれたものだからね、とツッコミをいれつつゆるゆると肩から力が抜けていくのを感じた。カカシは元チームメイトの横に立つと盛大なため息を吐いた。
「こいつ、人間の趣味悪過ぎないか。普通にどう見てもガキが懐くならおまえデショ」
「いや、オレはひっじょーに面白かった」
「なんでだよ…」
半眼で元チームメイトを睨むと、彼は悪戯がバレた子供のように肩を竦めた。
「ところでカカシ。同期でナルトに名前覚えられてるの、おまえだけって気付いてたか?」
「………」
ニヤついている元チームメイトから顔を反らすと、くいくいと忍服の足を引っ張るお子様と目が合った。
「かーしくん、おれんじじゅーす飲もうってばよ」
「……1日、1缶までだぞ」
厳しく言うと、「おう!」と元気な返事が返ってきて、足元にぎゅうぎゅうと小さな生き物が巻き付いてくる。
「参った。懐かれた…」
「でも、けっこう可愛いと思ってるんだろ」
カカシが「絶句」して黙ったので、うちはオビトはこれ以上ないほど爆笑した。
「もしも家族っ!」という題名のパラレル小説が書きたい。以下小話。
「あらあらーカカシくん。おかえり。寒かったでしょう?」
仲睦まじく声を揃えたB型夫婦に温かく迎えられたカカシは、任務でボロっとなった姿のまま新婚夫婦の新居へと足を踏み入れた。ちなみにカカシに無茶臭い過酷な任務を与えた張本人は赤い髪の女性の左隣でにこやかな笑みを讃えている金髪の大人その人であったりする。
「それで雪の国での任務はどうだったんだい。カカシくん?」
「どうもこうも…あんな手酷い任務の話は聞いてませんでしたけど!センセイ!どう見ても多勢に無勢もいいところでしたよ…っ!」
興奮のあまり咳き込んだカカシは、ぶすっとした表情のまま首に巻いたマフラーに顔を埋めると、居心地悪そうに夫婦の前に腰を下ろす。
「だからオビトを増援で送ったじゃない。彼は頼もしかったでしょ?」
「いや、センセイ!あいつはただ無駄に現場を引っ掻き回しただけですから!結果的にクーデターは鎮圧できたから良かったものの…」
「まぁ、まぁ、無事に帰って来れて良かったじゃない。ね?」
「クシナさん…」
マフラーに指を引っかけて顔を出したカカシは、口の中で何かを言いかけてモソモソと黙り込み、そこで初めて女性が抱えて来た小さな塊に気が付いた。
「ほら、ナルト。カカシくんよ。会うのは二度目かしら。カカシくんは家族なんだから、ちゃんとおかりなさいのご挨拶しないとね?」
腕の中ですうすうと寝息を立てている赤ん坊は贔屓めかもしれないが、とても可愛らしい。生まれ立ての命を前に、任務で凍てついていた心にじんわりと温かいものが滲んだような気がする。
「ねぇ、抱いてみない?」
「へ?いや、イイデスヨ」
とんでもない、というニュアンスを含ませれば、赤髪の女性は大仰に顔を顰めた。
「な、ぁ、に。カカシくんってば私の子供が抱けないってばねー?」
「そういうわけでは…っオレ、任務帰りで汚いし!」
「ま!何それ!ちょっと聞いた!ミナト!カカシくんったらまたひがんだ発想をしているわ!」
黙ってれば美人で聡明な師の細君となった人は、口を開けば男顔負けのガッツのある女性で、何かとカカシの世話を焼きたがる。常なら、そういったお節介を鬱陶しいとすら思うカカシではあるが、どうにもこの女性だけには弱かった。母は強しとはこういうことかもしれない。
「いいからいいから遠慮しな~い!」
さぁ!さぁ!と強引に赤ん坊を押し付けられたカカシは、普段クールに暗部任務を遂行している人物とは思えないほど引っくり返ったような悲鳴をあげた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。本当に待って…!」
かわいいでしょう、と赤ん坊を手渡したクシナは「はぁ、爽快感ってばねー」と呑気に肩をぐるぐると回して、台所へと姿を消す。カカシに出す飲み物を準備しに行ったのだろう。
「ク、クシナさん…っ!!」
初めて担当教師から彼女を紹介された時は、しとやかなどこか神秘的な雰囲気を持つ女性だと思っていた。しかし今思えばベンガルトラを百頭くらい被った状態だったのだなぁとしみじみと感じる。カカシは何度妊婦であった彼女の一挙一動に声が枯れるほど悲鳴をあげ、冷や冷やさせられたことか。先生って意外と気の強い女性がタイプだったんだなぁとか、カカシは若干師の意外な一面を垣間見たように感じたものだ。とにかくうずまきクシナという人は、色々とぶっ飛んだ女性なのだ。それは日常生活においても然りで…、
「クシナさん、オレのこと簡単に信用し過ぎです…」
カカシは腕の中の赤ん坊を見降ろして、ガックリと肩を落とした。忍の妻とはいえ、いや自身も忍だった人とはいえ、普通、妊婦や子供を育てる母親というのは自分のように殺しに携わる人間を忌避するものではないのだろうか。それなのに彼女はこうして血に濡れたカカシの手を気にすることなく、赤ん坊を抱かせた。避けるどころか、温かく迎え入れ、歓迎さえしてくれたのだ。
感謝しても仕切れないことではあるが、生まれたばかりの首も据わっていない赤ん坊はどこに力をいれていいかわからない。本当に自分と同じ生物なのだろうかと慣れない感触に変なところに力が入り腕が震えそうだ。
というわけでカカシはうごめく赤ん坊に恐れをなし必至の形相で台所から帰って来たクシナに助けを求めた。そして困り切った様子のカカシを発見した彼女は「まぁ…!」と声をあげた。
「……カカシくん……そのままで………」
「はい?」
「初めて赤ちゃんを抱いてタジタジなカカシくんのレアショットを激写!!」
はぁああああっ?何言ってるの、この人!?
左に右にと残像を残し、師の細君たる人がカメラを構えている。連射されるシャッター音に、カカシは口元をひく付かせた。
「せっ先生。クシナさんをとめてくださ…」
「ん!カカシ!フレッシュだよ!カカシのメモリアルアルバムに加えるべき一枚だね!」
「ちょ、やめて下さい、先生も悪ノリしないで下さい!」
何、コワイ。この人たち。話が通じない。カカシの顔前で焚かれるフラッシュの嵐。ぐるぐるとカカシの周りを回る夫妻を前にカカシは成す術もなく固まる。
いやふつうにオレが赤ん坊を落としたらどうするんだ。オレ、間違ったこと言ってるか!?
自慢ではないがカカシはDランク任務をすっ飛ばして上忍、暗部へと進んだ超エリートだ。つまり本来なら下忍たちが通るべきこまごまとしたお手伝い任務の数々、子守り任務等をしたことがまったくない。
そんな人間に里の宝…引いては夫婦の宝を持たせたままはしゃぐな!
カカシは赤ん坊が大事じゃないのかとこの呑気な夫婦を心の底から怒鳴りつけたかった。だって、カカシの腕の中の赤ん坊はこんなにも温かくて、万が一にも壊してしまわないかと震えてしまうほどなのに。
しかしふつふつと湧き上がる怒りを抑えていると、はしっとカカシの銀髪を引っ張る小さな手の平があった。それは、生まれて間もないというのに力強く、やけに体温の高い手の平だった。
「は……?」
間の抜けた声をあげて、視線を下げれば、細められた碧い瞳と目が合った。
「あらら。ナルトったら、流石は私たちの息子ね!カカシくんが優しいってわかるのよ!」
「本当だ。特別懐いてるように感じるね!」
カカシは呆然としたまま、腕の中の温もりを凝視した。はたけカカシが物の見事に静止した瞬間であった。
そうして彼はくしゃりと顔を歪めると、「いらっしゃい」ではなく「おかえり」と迎えてくれる夫婦に不覚にも泣きそうになってしまった。世間からちょっとズレた時間帯、木の葉の里、夜中の二時半のことであった。
いらっしゃいではなくおかえりで夫婦に迎えられるカカシくんでありました。
空気猫取扱説明書概要
ここは二次創作小説置場です。無断転載は禁止。本物のカカシ先生とナルトくん、作者様とは一切関係がありません。苦手な人は逃げて下さい。
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管理人の生態
自己紹介
名前 空気猫、または猫
職業 ノラ
趣味 散歩・ゴミ箱漁り
餌 カカナル
夢 集団行動
唄 椎名林檎
性質 人間未満
日記 猫日和
ある日、カカナルという名のブラックホールに迷いこむ。困ったことに抜け出せそうにない。
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趣味 散歩・ゴミ箱漁り
餌 カカナル
夢 集団行動
唄 椎名林檎
性質 人間未満
日記 猫日和
ある日、カカナルという名のブラックホールに迷いこむ。困ったことに抜け出せそうにない。
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