―優しく撫でて上げましょうー
「参ったな」
カカシは深々とため息を吐いた。
「痛いことなんて何もないから」
なんだ。この変態臭い台詞は。
「いい子だからそこから出ておいで?」
これもちょっと違うような。テレビと戸棚の間でぷるぷると震えている狐っ子。プライスレスで大きめのシャツ一枚。
いやもう、これではまるで本当に自分が幼児趣味の変質者のようではないか。だって仕方ないだろ。うちに子供用の服なんてあるはずがないのだから。
この時のカカシに、忍犬にお使いをさせれば良いのではないかという提案を思い付く余裕はまったくなかった。
「参ったなぁ、ただ前髪を切ってやりたいだけなのに」
カカシは右手にハサミが握ったまま困ったように後頭部を掻いた。
はたけ家にナルトがやって来て一週間。「ナルト」という単語が自分の名前であると認識しているかも怪しい半人半獣の子供はちっともカカシに懐かない。それどころか警戒心マックスで近寄りもしない。
だが、なぜだろう。この仔狐を見放し元居た場所に捨てて来ようとか、誰かに預けようなんて考えは思い浮かぶことはなかった。ナルトの食べ散らかした床を拭くのにも、一方的に話し掛けるだけの生活にも慣れた。ソファーで寝ているために、ダルくなった首を回しつつ、ふと目に付いたのが、押入れから引っ張り出して来た玩具で遊んでいるナルトの、手入れのされていない長めの髪の毛。
しばらく顎に手を当てていたカカシだが、踵返した彼は(確かどこかにハサミがあったような……)とこれまた昔引っ越し祝いで化粧の濃い知人から貰った散髪用ハサミを引っ張り出してきた。…もっとも不精な彼は自らの髪の毛はクナイで散切りにしているので、引っ越し祝いのブツが役に立つのはこれが初めてのことである。それから早1時間。
「ナールト、そこから出ておいで?」
膝を折って、なるべく優しく喋り掛けてみる。
「ほら、カカシ人形だよー」
自分の形を模した人形を二十六歳になるであろう男が、人形劇でもやるように動かしている。
「おまえの好きなカップラーメンもあるよー」
いくらあやしてもお願いしても、無駄だった。おまえどこに関節あるのよ、と問い掛けたくなるような場所に収納されたままの仔狐はうんともすんとも答えてくれない。
垂れ幕のように長い前髪の向こう側から、碧い瞳がカカシから目を逸らしたら負けだとでもいうように睨んでいる。
はぁとカカシはため息を吐いた。今朝、餌を上げる時だけは、恐る恐るではあるが、近くにやって来たので、心を少しは許してくれていたと思ったのに、今まで人間にどんな仕打ちを受けたか知らないが、刃物を出した途端ナルトの顔色が変わった。部屋の中でカカシ人形にカジカジと噛み付いて綿を出して遊んでいたナルトは、ハサミを持ったカカシの姿を発見すると、四つん這いになって駆け出すと部屋の隅っこへと逃げてしまったのだ。
そのうえ、見ているこっちが可哀想になってしまうほど、金髪碧眼の仔狐は部屋の隅っ子で震えていた。カカシが近寄ろうとすると「ウー…」と低い唸り声と共に、前のめりになったナルトは背中を丸めて四つん這いになり、歯を剥き出している。これではいつまで経っても埒があかない。
「はい。時間切れ。ナルトくん。オレは本気を出します」
「っ!」
「実力行使デス」
業を煮やしたカカシは暴れる仔狐の脇に手を入れると無理矢理抱き上げた。
「おまえね、このままだと視力が悪くなっちゃうでしょ」
それにせっかく造作が整った可愛らしい顔が、隠れて見えないことはちょっと、いやかなり残念だ。警戒心剥き出しで、尻尾の毛を逆立ててキューキュー威嚇音を立てているナルトに構うことなく、カカシはシャキンと子供の前でハサミを構えてみせる。
「きゃん!」
ナルトの顔が今度こそ蒼褪めて、甲高くで短い悲鳴が部屋に響いた。ポタタ、と赤い斑点が床に滴る。ナルトがカカシの指に齧り付いていた。
「あーらら……」
カカシはわりと日常的な声を出して、己の指から流れ出る血の玉を見詰めた。小さくて真っ白な犬歯に齧られた痕が二箇所。
「そんなに怖かった?」
ナルトは、罰の悪そうな顔で、カカシの足の間に隠れる。いや、そんなところに隠れられても困るのだが…。自分から齧り付いたくせに、傷付いた表情でカカシを見上げるナルトは、びくんと耳を伏せ、カカシに叱られると思っているのだろうか、酷く小さくなってしまっている。
「大丈夫だから」
叩かないよ?カカシは自分の片足にぎゅっと抱きつく仔狐を持ち上げた。
「何もしないから」
両脇に腕を入れて抱き上げた仔狐を、椅子に坐らせる。安心させるようにくしゃくしゃと頭を撫でてやると、ぽかんとした顔で見つめられた。真ん丸く開いた口から覗いた小さな牙が愛らしい。やがて…
「……あう」
「え?」
ぺろぺろとカカシの指を舐め始める仔狐がいた。あら、あららら?カカシは目を見開く。そのまま、犬か猫にしてやるように顎の部分を撫でてやると「ぐるぐるるる……」うっとりと喉を鳴らして目を細め始めた。
「綺麗にしてあげるだけだからね?」
両頬を掬い上げて、微笑み掛けると、ナルトのふさふさとした大きな耳が、2回ほど痙攣した。まだ少しだけ怯えているようだが、カカシはそれを承諾の印だと受け取って、ケープをナルトの首に巻くと後ろに回る。
「ん、怖くなーい、怖くない……」
「………っ」
「綺麗にしよね~?」
ぎゅっと瞑られた瞳。緊張でいからせた肩。ついでに言えば尻尾は丸椅子の下にくるんと丸まって収納されていた。
シャキ、シャキ、シャキと器用な手付きでカカシがナルトの髪の毛を切っていく。ハラハラと落ちる髪の毛。しばらくすると、緊張のとけてきたナルトがカカシの手の動きを不思議そうに見つめて、自分の頭の回りを動くカカシの手を追いかけるように、手を伸ばし掴んでは、カカシの腕にガシガシと噛み付いた。カカシはナルトの唾液でしっとりと湿った袖に苦笑しつつ、ちょこんと上を向いた鼻先に掛かった髪の毛をそっと指に腹で払ってやる。
「ほら、こっちの方がすっきりしていいでしょ?」
手鏡を顔前に出してやる。ぱちぱちと碧い瞳が瞬いた。カカシは満足気に、ナルトと一緒に手鏡を覗き込んで、三本髭の痣のある頬を指で突いてやる。
「おまえ、将来美人になるんじゃないの~?」
すると、鏡を凝視していたナルトのふさふさの耳がぴんと立ったかと思うと、ナルトが驚いた様子でカカシの懐にどんと背中からぶつかって来て、助けを求めるようにしがみ付いた。カカシの持っている手鏡を精一杯裸足の足で向こう側にやって、いやいやと首を振ってカカシの服の皺と皺の部分に顔を埋める。
いや、だから手も、こっちの身体もオレだからね?と思わずにはいれないが、すりすりとくっつく仔狐と手鏡を見比べてカカシは「あー…」と首を傾けた。
「……もしかして鏡で自分の顔を見たことなかった?」
「………」
「ナルトー、これおまえの顔だよ。わかる?」
ナルトは怯えたように鏡の中の自分を見詰めるとぷいっっと顔を逸らしてしまう。
きゅうううとカカシの服を掴んで丸くなる仔狐の体温は温かくて、カカシが抱き上げると、カカシの腕に誂えたようにすっぽりと収まった。
いい感じかも…なんて思いつつ、ふわふわの金糸を撫でて、その感触を楽しんでいると、ぴんと耳が立って、我に返ったように、ナルトがカカシを見上げた。
「え…?」
ぶわわっと物の見事に尻尾が広がる。
「あらら…?」
どうやら自分が人間の腕の中にいると、やっと気付いた様子。ケン!と一声。カカシの横っ面を尻尾で叩いて、獣耳尻尾付き金色の子供は部屋の隅っこに、逃げて行った。
「怖くない、怖くない」byナ★シカ
まだ人語は喋らず。