空気猫
木の葉マート、休日の昼下がり。いつもと違う時間帯にやって来た大人が一言。
「ナールト、バイトのあと暇?」
「へ?」
「外に飯食いに行かなーい?」
あのあと警察に呼ばれて事情聴取を取られたり、店長のチョウザにストーカー男のことがバレて「なんで言わなかったんだい!」と怒られたり心配されたり、(カカシ先生にも相談してって言ったデショと怒られ)色んな事があり、気が付けばもう9月という季節だった。
カカシがナルトのコンビニに通い始めて早2ヶ月程の歳月が経っていた。その間の二人の進展と言えば、あの夜の公園でキスをして以来まったく進んでいない。今時は中学生でももう少し発展が早いだろう。
「ご飯だってば?」
「そ」
「せっかくなんだから行ってくればいいじゃないかい?」
横のヤマトにも言われて、ナルトはうーんと考え込んでしまう。カカシの「ナルトの気持ちが追い付くまで待つよ」という申し出を受けてからというもの、カカシは本当にナルトに何もして来なかったし、プライベートで会う事もなかったのだ。
「明日、休みだし今日は9時上がりだから平気デショ。バイト終わる頃に店の外で待ってるからさ?」
「カカシ先生が迎えに来てくれるんだってば?」
「いや?」
「いやじゃねぇけど」
「飯っていってもそんなに堅っ苦しい所ではないし、――たまには誰かと一緒に食べるのも良いデショ?」
こういう時、顔の良い人は本当に得だと思う。そんな笑顔は反則だ。だってあまりに上手にカカシ先生が誘うから。こんなの断れないではないか。頭の中のナルトの言い訳をもしヤマトが聞いたなら、呆れ返った所だろうが、自称・恋人未満の大人と少年はそんな経緯で食事に出掛ける事になった。
「居酒屋…?」
「そ。ここならなんでも食べれるし、いいデショ?」
未成年を連れて来ていいんだってば?と思いつつ、ナルトは物珍しさからキョロキョロと店内を見回す。そうしてる内にも「バイト上がりだからお腹空いてるでしょ?」右から端に注文を始めたカカシを「わーっ」とナルトが止めつつ、結局おつまみ各種を少しずつ頼み、ナルトの口にはツクネ、カカシは日本酒を飲んでいる。
「ナルトー、ラーメンサラダってのもあるよ。頼む?」
「食う。―――カカシ先生ってばこういうとこよく来るの?」
「ま、たまにね。気楽だし。アスマとかと」
「アスマさんって前のあの大きい男の人だってば?」
「そ。あいつがまた大酒飲みでね~。ま、美人の奥さん貰って結婚してからは控えてるみたいだけど、あれはバカバカそれこそ熊のように飲み食いするの」
会話は相変わらずぽつりぽつりとではあるが途切れることはないが、なんで今日に限っていきなり誘われたんだろう、とそんなことを考えていると、電子音と共に携帯が鳴った。メールの受信ボックスを開いてみれば、
「うげ。キバからだってば!明日、抜き打ちで服装検査?ちぇ、また頭のことで呼ばれるってば」
「友達から?」
コクコクとオレンジジュースを飲みながらナルトが頷く。
「オレってば、これが地毛なのにさー、学年主任が黒く染めろーってうるさいんだってば。髪染めんなっつってるのに、黒染めはいいなんておかしいってばよ。すげーオーボー」
「あはは。そんなへりくつこねてる奴、オレの時代にもいたなー」
「これってば正当な理由。オレってばぜってーケンリョクには屈しないってば!」
「で、結局みんなで仲良く職員室に呼ばれて説教されるわけね?」
拳を握ってやけに熱く語る少年に大人がツッコミを入れて、「それは言わない約束だってばよ、カカシせんせぇー」とナルトがガックリと肩を落とす。
「ま、おまえの場合は本当に地色なんだからちょーっと気の毒だよねぇ」
「そう思う!?思う!?カカシ先生ってば、〝センセイ〟なのになかなか話しがわかるってばよー」
へらっと笑った少年におだやかな視線を送りつつ、カカシはグラスを傾ける。「今日はオレの奢りだからいっぱい食べときなさいよー」と少年の皿に今しがた運ばれてきたラーメンサラダを野菜を多めにどばーと盛り付け「ぎゃー野菜はノーサンキュー!!」慌てて取り皿を避難させようとする少年のおでこを腕で押さえ問答無用で食させ、カカシは背を丸めてくくくと笑った。
「ううう、カカシ先生ってばやっぱやっぱ〝いやーなセンセー〟だってば」
「はいはい、なんとでも言いなさい。おまえねー野菜食べないとそのうち本当に死ぬぞ?」
「し、死ぬの!?」
「うん、死ぬよ?」
真顔でニッコリ笑ったカカシにナルトはザザザーと蒼褪める。もちろん野菜を食べなかったからといってそう簡単に人間が死ぬものではないと思うが、カカシが言うと妙な圧力が有るから不思議である。
「ナールト、そんな顔してないで笑ってよ?」
「今は無理っ。カカシ先生ってば、オレをそんなに苦しめて楽しいんだってば!?」
「おまえ、面白いこと言うね?」
涙目になって野菜を箸で突く少年に苦笑しつつ、カカシは少々悪趣味な蛙のストラップのぶら下がった携帯にふと目を向ける。
「ナルトー。その携帯ってさー」
「……んあ?」
皿の上の野菜と睨み付けていたナルトが首を捻る。
「……例の変な電話が掛かって来ていた携帯?」
ぼそりとナルトにすら聞こえない呟きを漏らし、カカシは徐ろにナルトの携帯を手に取る。
「カカシ先生?」
ナルトが止める間も無くカカシは、ぼっちゃんと飲み掛けのグラスの中に携帯を落とした。
「あーっ」とナルトが大きな口を開けて呆然と黄金色のカクテルの中に沈んだ己の携帯を見詰める。
「オ、オレの携帯。カカシ先生ってば、何すんだってばぁ!」
「あ、ごめん。つい―――」
「オレのメモリィィ!!!」
ついってなんだってば。ついで人の携帯をグラスの中に落としちゃうんだってば!?
カカシを見れば、カカシは例の呆然とした顔で己の手元と携帯とを交互に見ていて、自分のやった行動の意味を計り兼ねている顔で首を捻っている。
「ごめん、ごめん。それじゃあオレが新しいの買ってあげるから」
「そ、そういう問題じゃねぇってばよ。データの控えとか取ってないのにぃ!」
「あらら」
「なんかさ、なんかカカシ先生ってちょっとズレてるってばよ!」
「あー、そうかも。よく人に言われるんだよねぇ」
自覚しているけど治そうとする意思が見られないカカシの様子にナルトは呆れてしまう。それどころかカカシは、暢気な顔で笑い出す始末だ。
「よし、一緒に携帯買いに行こうな。そういえば前に手を繋いで携帯ショップに入ったらカップル割引になるってサービスがあったけど、あれってまだやってるのかな?」
笑えない冗談、ではないかも知れないが、際どい冗談を言い出すしたカカシに、「カカシセンセー…」とナルトが物凄く何か言いたそうに睨む。
「ん。ごめんな?」
と言いつつ、カカシは瞳を伏せてお酒を飲んでいる。その姿はとてもサマになっているし、格好良いとも思う。だけど、どこにスイッチがあるかいまいちわからない大人。その矛先はナルトに向けられることはないようだが、ナルトはこうした大人の一面を見る度に、オレってばカカシ先生のことを何も知らねぇんだよなとしみじみ思ってしまう。
どうやらカカシの話を聞く限り一般的なお勤め人ではないようだが、この件に関しては何故かはぐらかされたままで、いつまでも身分を明かしてくれない大人に、オレってばもしかして遊ばれてる?と思わないでもない。
だけど、カカシはナルトを好きだと言ってくれる。言葉や態度を見ればそれに嘘が無いことがわかる。改めて自分の立場を振り返りナルトは思うのだ。自分はもしかしたら凄くカカシに大切にされているのではないかと。
普通の男なら、好きな人間を相手に色々と致したい気持ちは男なら当然あるだろう。仮にもカカシと同じ性を持っているナルトはその気持ちがよくわかる。
それなのに、「待っている」というカカシの言葉が改めて信じられない。いつまでも返事をしない相手に対して、ここまで優しく出来るものだろうか。
おそらく―――。これはナルトの予想だが、カカシが少しでも本気を出せば、自分などいとも簡単に組み伏せられてしまうと思う。体格的な違いはもちろん、どうやらイロイロ慣れていそうなカカシなら無理矢理自分を抱いてしまうことだって出来るはずだ。
それなのに、まるでナルトの歩幅に合わせるように、歩いてくれるこの大人は…。
ナルトの心の中がまた温かくなる。
「ナールト。次で最後の注文だけど何か食べたいものある?」
真夜中近くになってカカシが腕時計を確認しつつ、お冷とまた何かを店員に注文しながら言った。
「最後にちょっとだけ飲んでみな?」
「?」
日本酒を中心に、舐めて味わうのが主流の酒を先程から結構なペースでグラスを傾けていたカカシが、ラストオーダーした酒は、今までと趣が違った。琥珀色や黄金色とも違う、新しく運ばれて来たピンク色の液体にナルトは目を真ん丸くさせる。
大人に促されて恐る恐る舐めて見れば、
「イチゴミルク?」
「―――の、カクテル。飲み易いでしょ?」
頷きつつ、甘さに誘われて結構なペースで飲んでいると、
「はーい、そこまで」
すかさずグラスを取り上げられる。わしゃわしゃと頭を撫でられ、若干ぽやんとした顔でカカシを見上げれば、「おまえお酒弱かったんだねぇ」と苦笑された。
甘い雰囲気を漂わす二人に、伝票を置きに来た店員が不思議そうに首を傾げたが、金髪の少年の髪を愛おし気に弄る男の表情に、「見てはいけないものを見てしまった人」特有の気不味い表情を浮かべ、赤面と共に退場した。もちろんほろ酔い加減になり、カカシの肩口に頭を預けていたナルトは知る由もないことだった。
居酒屋を出たのは真夜中過ぎ。道路は人通りも無く、歩く道は二人っきり。やはり車道側を歩くカカシの横には、ナルトが片足飛びをしつつ、ポケットに手を突っ込んで歩いていた。
未だにカカシの隣に歩くのが気恥ずかしく、そんな自分を誤魔化すために、「よっと!」とナルトは堀の上でバランスを取る。
「おまえ、危ないデショー」
ナルトのパーカーをカカシが引っ掴んで、赤になった信号を指差す。
注意された所で交通量なんて殆どない時間帯だ。居酒屋を出てからというもの口数が少なくなった大人に、ガラにもなく緊張してしまったとは言えるはずもなく、決まりが悪いなぁなんて思いながらナルトはニシシと笑った。
アルコールでふわふわした足取りのナルトに、カカシは苦笑と共に「右見て左見て~」と言いながら、ナルトのパーカーを掴んだまま横断歩道を渡る。
「ひ、ひとりで歩けるってばよもう!カカシ先生ってば時々オレのこと子供みたいに思ってる時あるだろー…?」
「だっておまえ危なっかしいんだもん。いきなり飛び出しそうだし」
う…。と詰まった少年に、カカシはまた苦笑した。
「今日、オレの誕生日なんだよねぇ」
「へ……?」
そろそろ肌寒い季節。トレンチコートを羽織りナルトの一歩先を歩いていた大人の台詞に、ナルトが固まり、仰け反った。
「って、えええええええっ!」
「どうしたの、ナルト?」
「たたたんじょうびって今日!?」
「まぁ、正確には昨日?」
12時過ぎを差した腕時計を確認しながら、あっけらかんとカカシが答える。金髪の少年はカカシの告白に、目をしぱしぱと瞬かせた後に、がっくりと肩を落とした。
「どーしたのナルト?」
「カカシ先生…。オレってば今日が先生の生まれた日だって知ってたら誕生日プレゼント買ってくるとか、するってばよ」
モゴモゴと呟いた少年は、更に片手で拳を振るってもう片方の手でカカシを指差す。
「それに今日、カカシ先生の奢りじゃん!」
「いいよ、オレが奢りたかったんだから」
「な、なんでだってば~」
訳が解らず、大口を開けてカカシを見上げればにっこりと笑みが返って来た。
「誕生日にナルトと過ごしたかったんだ。ありがとうね」
ナルトはまたしても静止画のように固まり、ぱくぱくと口を動かす。なぜ、そんなこと不意打ちで言うのだろう。それも、今になって。反則だ。最初から言ってくれたら。……言ってくれたら?
「………」
―――自分はどうしたのだろうか。そんな日に一緒にいれないと断った?それとも…?
「ナルト、おまえは深く考えなくていいからね。オレが勝手にした我儘だから」
「!?」
ナルトの心情を呼んだのか、先手を打ってカカシが気遣ってくれる。その手慣れた大人らしい所作がナルトには哀しく映った。
「カカシ先生は…、なんでオレが好きなんだってば」
目元まで赤くなったナルトは自然と声を落とす。
「ナルト?」
「だってオレってばガキだし、男だし、全然カカシ先生に好きだなんて言って貰える良いところない」
ずっと気になっていたことだ。なぜ、自分みたいな子供をカカシは好きになったのだろうか。カカシのような男性なら綺麗な異性の恋人など選り取り見取りだろう。
「オレは、カカシ先生のことキライじゃねってばよ?上手く説明できねぇけど、オレってばカカシ先生になら…、その、触られても嫌とか思わねぇし、一緒に居ると安心するっていうか……」
トレンチコートの大人は黙ってナルトの言葉を聞いて居たが、柔らかな微笑みを唇の端に乗せて手近にあったガードレールに腰掛けた。
「嬉しい告白だな」
「え」
「オレは、気が付いたらナルトのことを好きになってた」
「へ?」
「好きの始まりなんていつだってそんなものだよな」
カカシは夜空を振り仰いで笑う。
「コンビニでナルトを見つけて、ちょこちょこ働いている姿とか、いつも一生懸命な所とか、素直なくせに結構負けず嫌いな所とか、可愛いなぁと思った。毎日、会いたくなって、顔が見たいとか、声が聞きたいなとか、思い出したら止まらなくて気が付いたらコンビニに足が向いていた」
こてんとカカシが首を傾げる。
「これじゃ、ダメ?」
「っ!」
「人を好きになるなんてね、自分でコントロール出来る方が珍しいんだよ。ナルトは、誰かを好きになることを止めることが出来た?」
カカシに訊ねられ、ナルトは、綱手や工場の皆、シカマルやキバ、チョウジを思い出す。止めることなんて、出来なかった。どんなに頑なに拒否しようとしても、罅割れた大地がやがて再生するように、ナルトの大切な人たちは増えていった。それはナルトが目を逸らし考えないでいたことだ。
人を好きになることは怖い。だけど、好きにならずにはいられないのも人間で、人と人との中で生きていく限り、きっと好きになることも嫌いになることも、傷付くことも止めようがなくて、道を歩けば誰かと肩がぶつかる。生きるっていうのはそういうことで、そしてすれ違うたくさんの雑踏の中で、ただ一人を見つけることは、誰であっても困難なことで、無難な人で済ましてしまう人、何となく選んでしまう人、この人と決めては何度も変えてしまう心変わりの激しい人、人間の数だけ様々な形がある。だけど、ナルトにとっては、誰かを必要以上に好きになることは、踏み出せずにいた一歩で、だって優しくしていなくなるくらいなら初めからいらないのだ、あの夕焼けの日のように…。
同級生の女の子を好きだという気持ちは、その子が別の人を想っているから、きっと成立していた想いで、彼女を好きなのだと思うことで誤魔化して正当化していた自分の気持ちをちゃんとわかっていた。
本当のナルト自身は孤独だった。誰も本当の意味で好きになったことがなかったから。
だけど、今、ナルトの目の前には温かな手が差し出されている。自分はこの大人と、肩を合わすほど近くで歩き初めていいのだろうか。この優しい人は、自分と一緒に同じ時間を同じ距離で歩いてくれるのだろうか。それがもし、一時的なのものであったとしても?
そこでふと考える。もしこの大人が己から離れていった時、自分はどれだけ傷付くのだろう。終わることを考えてしまう癖はまだ抜けそうになくて、だけど、どうしてだろうか。カカシのことだけは信じてみたいと思ってしまう。いいや、ちがう。もしカカシが自分から離れていっても、カカシを信じた自分を後悔しない、とそう思えるのだ。
ふ、っとナルトの視界が開けた。涙の足跡を辿れば、まだあの夕焼けの日と繋がっているが、この優しい人となら新しい一歩を踏み出して見るのも悪くないかもしれない。
「カカシ先生。オレってば決心した」
「え?」
「オレってばカカシ先生の恋人になりたい」
「!」
ナルトの言葉にカカシが電撃を受けたように固まる。
「…え?…は?……ええと、ナルト。今なんて?」
口元を覆い、珍しく動揺した様子のカカシにナルトはきょとんとする。
「カカシ先生?」
「あ、ごめん。足が震えて立てなくなりそうだ」
えええ、とナルトが慌てた様子でカカシに駆け寄ると、大きな腕にやはり壊れ物のようにそっと包まれた。
「まさか今日、返事を貰えるなんて……」
「そのつもりで言ったんじゃねーの?」
「伝わったらいいなーくらいだよ。それなのに、夢見たいだ。だけど、本当なんだよな―――うわ、うれしくて心臓止まっちゃいそ…」
突然、骨が軋むほど強く抱き締められる。
「わ、カカシ先生!?」
「もう好きなだけ抱き締めてもいい?」
「へ?」
「好きなだけさわってもいい?」
「っ」
「オレの――、ナルトになってくれるの?」
大人が覆い被さって来て、「キスしていい?」とお願いされてナルトは顔を真っ赤にさせる。
「いちいち聞くなってばよ…!」
「え。聞かないで欲しいの?」
「んなんじゃねーけど……んっ!」
言い掛けたナルトの唇にカカシの唇が重ねられる。ふっと息を吹き込まれ、不意打ちのキス。
「ん」
甘苦…?口の中に広がるイチゴミルクの味に、ナルトはアルコールのせいか、今までにない熱情的なキスのせいか、酩酊感に襲われる。―――ああ、さっきのカクテルだ。
大人の舌から移されたイチゴミルクの味と、以前にされたものよりも深く味わい尽くすようなキス。カカシの口付けはナルトの息が切れるまで続けられて、お互いの唇が離された瞬間、甘い吐息が漏れた。
「おまえの口の中って甘いねぇ、さっき甘いもの食べたっけ?」
「カカシせんせぇは、お酒臭いってば」
「あらら」
ぷは!と息を吐き出して、ぎゃいぎゃい騒ぐナルトに、ごめーんね?カカシは謝罪したが、反省の色は薄く、やはりわかっているのかわかっていないのか見当も付かなかった。しかし、ナルトはその日誕生日のカカシに最高のプレゼントを贈り、帰宅したのだ。
並んだ背中。ちょっとおかしな常識を持つ歪な大人と囚われていた過去から歩き始めた日向かいの少年。踏み出した一歩は僅かであったのだけど、確実に、そう確実に。
おまけ
「カカシ先生ってば今からでもなんか欲しいもんねぇ?オレってばカカシ先生にプレゼントあげたいってば」
碧い瞳をキラキラさせて自分を見上げた少年に、もう十分に貰っちゃったんだけどねぇとカカシは苦笑してぽんと頭に手を載せる。
「別になーんもないよ?」
「それじゃぁ、つまらねぇじゃん!」
口を尖らせてぐいぐいシャツの袖を引っ張られ、15歳にしては子供っぽい少年の仕草に、カカシはしばらく考えたあとにニンマリと口の端を吊り上げた。
「なー、なー、なんか欲しいものないんだってば。なーんでもいいんだってばよ?」
「一つ思い付いたよ、ナルト」
「なになに、なんでも言っててば?」
色違いの目を細めた大人は無防備な笑顔を見せる少年に向かって、悪戯っぽく微笑んだ。内緒話をするようにカカシが口元に手を当て、ナルトへと屈み込んで、
「じゃあね今度は、ナルトを頂戴?」
「!!!」
ぼそぼそと耳元で囁かれたその台詞。それに含まれている意味を知らないという年齢でもないナルトは、にっこり微笑んだカカシにこれまでになく顔を真っ赤にさせた。
End
カカシ先生ハピバ!(どんだけフライング!?)
現代パラレルイチゴミルク編、完結です。
そんなわけでナルトくん男の人とお付き合い初めてしまいました。
「あー、ちょっと痕が残っちゃったねぇ…」
強く握ったらぽきんと折れてしまいそうな細っこい腕に浮いた赤い指の痕。あー、やっぱりあのストーカー男もっと蹴っとけば良かったと物騒なことを思いつつ、カカシはナルトの腕を水で濡れたハンカチで拭く。
近所の公園のベンチの上にナルトを半ば強制的に座らせて、まるでそれで痕が消えるかもしれないとでもいうようにカカシは何度もナルトの腕を擦っているが、ナルトといえば敬うように膝をついて自分の腕に視線を落としている大人に、恥ずかしいやら居た堪れないやらで、例によって例の如く赤面していた。
「カカシ先生、もういいってばよ!」
ぎくしゃくとロボットのような動きでナルトは勢いよく立ち上がったが、次の瞬間、震えている自分の足に気が付いた。
「あ、れっ?」
「おっと――」
カカシに片手で支えられて、頭に3つほどクェッションマークをつけたままナルトが固まる。
「なんかオレってば…」
ほっとした途端に麻痺していた色んな感覚がいっぺんに戻って来たようで、遅れてやって来た恐怖に無理矢理笑みを作って誤魔化して見るも、表情は引き攣る上、足は震えてまともに立てず、夜道で追い掛けられたこと、腕を掴まれたこと、羽根を毟られて死んだ鳥の死骸が、フラッシュバックして、まともに息が出来なくなる。
「おかしいってば、オレ」
呼吸ってどうやってするんだっけ、と何とも間の抜けたことを思いつつ、だけど正しい息を仕方が思い出せなかった。
――息、できねぇってば。
「―――っ」
誰に助けを求めることもせず、くの字になって縮こまった少年を見下ろして、ああいつだってこの子はそうなのだとカカシは思う。
とりあえず、悪い癖を直してあげることはまだ後回しにして、今やるべきことをカカシは行った。
「ナルトー、息をゆっくり吸ってみようか」
「っひ」
「無理しなくていいから、ゆっくり。オレの呼吸に合わせるように、な?」
「―――っ」
「怖くない、オレが居るから怖くないよ?」
「あ、あ、あ、あっ」
ナルトの喉からヒューヒューと短い呼吸が繰り返されている。
「もうここにはオレしかいないよ?」
乱れた息を繰り返す少年を後ろ抱きにして宥めるように頭を包み込んでやる。すると、「置いて行かない…っで」「独りにしないってってば…」ふとすれば聞き逃してしまうほど小さなノイズをカカシの耳が拾う。
「ナルト……?」
置いて行かないで。独りにしないで。嗚咽のように小さく繰り返される願いは、きっとあの夕暮れ刻の頃から変らない、希求。
どうやら、ナルトの中では「喪失する」というキーワードがきっかけで、父親の失踪した日の事と、今回の事とがごたまぜになっているらしい。
カカシがわかるわけがないと思いつつも、ナルトは嗚咽を漏らすことを止めることが出来なかったのだが、カカシはそんな少年を見下ろて、ありったけの優しさを込めて抱き締めた。
「オレはナルトを独りになんてさせやしなーいよ?」
カカシは枯れ掛けた花に水を注ぐように、極上の笑みをナルトに落とした。
「ナルトが望んでくれるんならいつだって傍に居てあげる」
後ろから伝わるカカシの体温。オレに呼吸を合わせて?と唄うように囁かれる。
「オレはナルトのためだけにここに居るんだから、ナルトの好きなようにしてくれていいんだよ」
震えるナルトの背中をすっぽりと包み込んで、
「ナールト、ナールト?」
一定のリズムで、子守唄か何かを唄うようにあやす。
なぜ、全てを知ってるような口調で彼は自分を温めてくれるのだろう。ナルトはまだそのわけを知らなかったが、カカシに温められると酷く落ち着いた。
「平気だから、落ち着いてみな?」
「カカシせんせぇ」
「ん…」
やがて二人の心臓の音が重なって、くてんと腕の中の少年の力が抜けたのを見計らい、カカシは、愛おしそうにナルトの前髪を掻き揚げた。
「ナールト、ナルト?」
「ん……」
「オレの質問に、答えてくれる?」
カカシは、ナルトの後頭部に顎を乗っけながら、はっきりさせなければいけないことを問う。
「おまえ、あいつにオレに近付くなって言われてたの?」
こんな時に、と可哀相かと思うが、それ以上に今この時に少年の口から答えを聞きたかった。やがて躊躇った末、ナルトの口が開かれた。
「……カカシ先生と親しくしたらカカシ先生が酷い目に合うって」
やっと絞り出した声は涙の粒と共に。
碧い瞳から、透明な滴がポロポロと零れ出す。
「だからオレ、一生懸命カカシ先生のこと避けて、カカシ先生と喋っちゃいけないって…」
その時のことを思い出したのかまたナルトの声が震えだす。
「だから、カカシせんせぇに触られるの、カカシせんせぇっ、のは全然、いやなんかじゃなくて、ちょっとビックリした…っけど、キモチワルイとかそんなんじゃなくって、オレ、んなこと全然、思ってないのに、センセ、は変なことばっか言って誤解してて…」
思考が上手く纏まらなくて、だけど伝えたくて、勝手に決め付けんなぁと、しゃっくりを上げながら泣いた少年をカカシは壊れ物のように自分の懐の中に収める。
「そっか、わかったよ。辛かったのに、話してくれてありがとう」
カカシは愛おしそうにナルトを抱き締める。
「……ナルトは、オレのことを嫌じゃない?」
「嫌じゃないってば」
「喋ってもいい?」
「……うん」
「ふれても?」
貝殻のように小さな耳が真っ赤に染まる。ついと逸らされた顔を覗き込まれ、ナルトは小さく唸り声を上げた。
「迷惑じゃない?」
コクコクと涙を零しながらナルトが頷くと、途端にナルトの爪先が宙に浮いた。それなりに体重もあるであろう身体をいとも簡単に抱き上げられ、くるくる回される。
「良かったぁ~」
カカシが今まで見たこともない力の抜け切った顔で笑う。どこか、幼ささえ感じさせる子供っぽい表情に、ナルトは目を見張る。
「ほっとした。ナルトに嫌われたかと思った」
しばらくメリーゴーランドのように回されてやっと地面に降ろされたかと思うと、ちゅ、と桜色に染まった耳朶にキスが落とされて、抱き締められる。「え、え、え、え」と戸惑うナルトに、カカシは蕩けるような笑みを浮かべたのだった。
「大好きだよ、ナルト」
「あ、ありがとだってば……?」
「大、大、大好きだよ、ナルト」
先程、無抵抗の人間相手に無慈悲な蹴りを入れていた人物とは思えない変りようである。ナルトの前で無防備な笑みを見せる大人は、端から見れば確かに、どこか人間として偏った所が有るのかもしれない。カカシの中にある歪んだ鏡は、果たしてどんな像を結んでいるのか、それはまだナルトすら解る術もないことだった。
「おまえのことが世界で一番好きだよ」
「ええと、カカシ先生のキモチは凄く嬉しいってば。でもいきなりはその…。オレもお付き合いとかよくわかんねぇし…」
「うん、しばらくはこのままね♪」
やけにあっさり頷かれてナルトはきょとんとする。にこにこ笑うカカシは嬉しそうにナルトの両手を握り、やっぱり膝を付いてベンチに座ったナルトを見上げている。
「ナルトが戸惑う気持ちよくわかるよ。男同士だし、なかなか上手くイメージが付かないかもしれないけど、オレは待ってるから。急がないで自分の気持ちをゆっくり考えてごらん?」
「……カカシ先生は、それでいいの?」
「なんで?ナルトがイヤーって言ってるのにオレの気持ちばっかりが押しちゃダメでしょ?」
「え」
「ナルトの気持ちの準備が出来るまでちゃんと待ってるよ。それまでオレはナルトがオレのこと大好きだって思えるように頑張るからね」
カカシ先生は、ちゃんとオレの気持ち、考えてくれるんだ。どこか、ほっとしたような気が抜けたような、そんなカカシの申し出と共に、ナルトは知らず息を吐く。
「ほっとした?」
「うん。……え?その別にっ、オレってばっ」
「くくく、無理しなーい」
「し、してねぇーってば!」
バカにすんなってば!と顔を赤くさせる少年を可愛いなぁなんて思いつつ苦笑して見つめて、だけどこの大人は少しだけ意地が悪いのである。
「じゃあね、キスさせて?」
「へ?」
「だめ?」
前に予約してたデショ?とナルトのふっくらとした唇を意味ありげに親指でなぞって大人が首を傾げる。
「ああ、ええとそういうのってちゃんとお付き合いしてからとかじゃ……」
ナルトが言いかけて、物凄く哀しそうな顔をした大人の表情にナルトはぱちくりと目を瞬かせる。
「ええと……」
外国ではキスは挨拶の代わりだっけってば?
「カカシ先生はその、シタいんだってば?」
「………」
真摯な瞳で見つめられ、ナルトは黙り込んだ。カカシには危ない所を助けて貰ったり結構お世話になってる。なのに、自分は全然お返し出来てないと言えた。…キスくらオッケーだってば?
どこかのめんどくせぇが口癖の少年が聞いたら「流されんな、そういう問題じゃねえ!!」と即ツッコミが入りそうな思考回路の果てに、ええいままよ!と少年は、男前に決断した。
「ど、どんと来いってばよ!?」
顔を真っ赤にさせてきゅうと目を瞑った少年にカカシは破顔した。
「…なんかおかしかったってば?」
「ううん、すごくソソる」
お許しが出るや否や、カカシは猫のように背中を伸ばしナルトの柔らかい唇を頂戴した。
「ん!!」
うわー…とナルトは合わさった唇の感触に、首を竦める。口を半開きにした拍子に、熱い舌が侵入し、男の人とキスしちゃったってば、なんて思いつつ、カカシの舌の動きに翻弄される。
(カカシ先生ってば、なんか慣れてるっ)
年齢的な経験の差を考えれば当たり前のことだが、知らずカカシのシャツを掴み、上がる息。てっきり軽いキスかと思いきや5分以上もの間に渡って拘束された。
結局、ナルトはロクな抵抗も出来ないまま、美味しく頂かれたわけで、つぅっとどちらのものとも知れぬ唾液の糸が垂れて、お互いの唇が離れた時は既に、健全とは言い難い淫靡な雰囲気が漂っていた。
「……カカシセンセェ?」
はぁはぁと息を上げて、肩で呼吸をするナルトの頬にキスをして、
「ありがと、ナルト…」
カカシが笑みを零した。
「凄く可愛かったよ…」
「なっ……!」
瞬間湯沸かし機になったナルトをカカシが抱き締める。
「ん、その顔も可愛い。だけど…」
「っ???」
「笑って、ナルト?」
「え?」
「おまえ、ここ最近ずっと泣いてたでしょ?夕方にも泣いてたし、さっき道でぶつかった時も泣きそうだった」
驚いて目を見開いたナルトに、
「わかっちゃうんだよね~」
とカカシがあっけらかんと立ち上がって、膝に付いた砂埃を払う。
「涙の落ちる音がしたから」
にっこり笑った大人の顔をナルトはきょとんとして見つめて、「アパートまで送るよ」と差し出された手を取る。
はたけカカシには、自称おかしな特殊能力がある。本人曰く「ナルトが泣くとわかる涙センサー」という嘘のような変わった特技をナルトが知るのはもうちょっと先の話になるが、これ以来ナルトが涙を零すと必ずと言って良い程カカシが駆けつけるので、この俄かに信じ難い特技はカカシ自身によって実証されることになったのである。
涙センサーって聞くだに恥ずかしい。サムい。ごめん、カカシ先生。
自分の腕の中で、浅い息を繰り返し震える少年が逃げ出す節がないのを確かめるとカカシはナルトの頭をやんわりと抱き締めて口を開く。
「おまえ、オレのこと最近避けてたよね。どうして?…この間のこと嫌だった?男に触られて気持ち悪かった…?」
薄明るい電灯の下。カカシの声だけが、ぽつりぽつりとアスファルトの地面に落ちる。
「もしあれが嫌だったなら謝る。バイト中だったのに、困ったよな。怖かったよね?ごめんね、おまえは優しいから、オレのことイヤだって強く言えなかったよな……?」
躊躇ったように切り出したカカシの声は、落ち着いていたが、僅かに擦れていた。予感していたが、やはり切り出された台詞にナルトの胸がきゅうと切なくなる。
「カカシ先生―――」
違う、カカシ先生が嫌いなわけじゃない。そんなこと言わないで。たくさん言いたいことがあっても言葉が出なくて、その代わりポロポロと涙が頬を伝う。
「せんせ―――、」
「ナルト。オレは、おまえのことが好きなんだ。だから、おまえに嫌われるのだけは耐えられないんだよ…」
カカシの告白にナルトは大きく目を見開く。明日この世界が終わってしまうんだ、と同じくらい深刻な口調。自分のような十代のガキ相手に14歳も年上の大人が真剣な表情でそんな台詞を言うなんて、なんだかちょっと信じられない。大人が今どんな顔をしているのか知りたくて、ナルトはカカシの腕の中でもぞりと身動きする。だけどいっそう強く抱き締められて結局大人の襟元に頬をくっつけるしかなかった。
「許して欲しいんだ、もうおまえのイヤなことしないから」
「………っ」
いやだなんて…―――思いもしなかった。カカシの与えてくれる熱は、酷く優しいものばかりだったから。心臓が痛くて、痛くて堪らなかった。
「もし、オレの気持ちが迷惑だって言うなら無視していい。もうオレに話しかけなくていいよ?おまえがちゃんと女の子を好きなことも知ってる。テンゾウから聞いたよ、〝サクラちゃん〟だっけ?だから男のオレにこんなこと言われて、おまえはビックリするかもしれないけど。でも、オレのことキライにならないで欲しいんだ」
お願い、ときゅうといっそう強く抱き締められ、ふっと拘束する力が緩まって、見上げれば、ナルトと同じくらい痛そうにひそめられたカカシの顔。
「無理矢理、話してごめんな?どうしてもおまえにこれだけは聞いて欲しかったんだ。今も、ごめん。本当に、ごめん。もう離れるから―――」
「カカシせん…せ、ちがっ」
「―――…ナルト?」
きゅうとシャツを掴む少年にカカシは軽く目を見開く。再び抱き合う格好になる二人。
少年の不可解な行動。僅かに頭の端に引っ掛かるこのモヤモヤは何なのか。頑なにまで拒否をしておいて、何故この少年は今ここで自分に黙って抱き締められているのか。それどころか、抱き締めたナルトの身体はちょうどカカシの腕のサイズに誂えたかのようにしっくりと馴染む。
「オレ、カカシ先生のこと嫌いじゃな…っ」
「え?」
「だめだったんだってば、オレ、カカシ先生と話しちゃいけなかっただけで。オレってばカカシ先生のこと――!」
「どうしたのナルト?」
腕の中の少年は相変わらずカタカタと震えていた。
「おまえ、何かに怯えてるみたいだよ?」
その時、からんと空き缶が転がる音がした。
「!!!」
弾かれたようにナルトの顔が路上に向けられる。コロコロ転がってくる空き缶の先を辿ると、いつの間にか明滅を始めた電灯の下にぼぅっとそこだけ切り取られたように浮かび上がる男の姿があった。血塗れの写真を思い出してナルトが戦慄する。
「ナルト、どうしたの?」
カカシもナルトを追いかけるように路上へと視線を向け、僅かに顔を顰めた。自分より若干背の低い中肉中背のスーツ姿のサラリーマン。どこにでも居そうな見てくれの男だが、今この場面でなぜ彼が出てくるのか、それがカカシにとっては不可解だった。
「知り合いなの、ナル―――」
言いかけて言葉を切る。男の形相に尋常でないものを感じたからだ。知らず、腕の中の少年を抱き締める腕を強くすると、男の瞳に薄暗い炎が宿る。
「ねえ、ナルトくん。どうして最近電話に出てくれないんだい?」
男の、なんの脈絡もなく唐突に始った会話が、相手と意思疎通をするつもりがないのだと表しているかのようだった。ナルトが何も答えず無言で喉を垂下すると、男がおもむろに鞄から携帯電話を取り出して、耳に当てる。
「きみの番号に電話しても繋がらないんだ。電話番号変えたんだね」
かくんと携帯を耳に充てたまま首を傾げて、男の顔が半笑いになる。
「まぁ、こんなの調べればすぐにまたわかっちゃうんだけどね」
男が親指が発信ボタンを押すと同時にナルトのジーンズの尻ポケットの携帯電話から着信音が鳴り響いて、蒼褪めて震えるナルトの様子に、面白くて仕方ないというような男の薄暗い笑い声が路上に巻き起こる。
ひゃはひゃは腹を抱えて笑い転げる男は、酔っ払ったように揺らめいて、笑いの発作が収まると、手持ち鞄からナルトにとっては嫌というほど覚えのある瓶を取り出した。
「プレゼントもなんで捨てちゃうのかなぁ?」
ごとん、とアスファルトの地面に、白濁とした液に満たされた瓶が投げ付けられる。
「僕のせっかくの気持ちだったのに、気に入らなかったのかな?」
ゴミステーションから拾っておいて上げたからね?という男の台詞にナルトが「ひっ」と短く悲鳴を上げて、カカシのシャツに顔を埋める。
「……ナルトくん?どうしてそんな男の腕の中にいるんだい。きみの場所は僕の近くだろう?」
自分から距離を取り、抱き合う大人と少年の姿を、男は一瞬、歯噛みをするように見つめて、すぐにまた笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。わかったよナルトくん。僕が会いに来なかったから寂しかったんだね」
まるで大発見をした子供のように男の腕がナルトに向かって広げられる。男の口調が急激に自信を帯びて明瞭化する。
「僕が構ってあげなかったから、そんな男と遊んでいたんだね?まったく君って子は放って置くとすぐに浮気して僕を困らすねイケナイ恋人だね」
歪んだ鏡が歪んだ像しか結ばないように、男の心の中で勝手にナルトとの物語が進んでいるようだ。
「やっぱり僕がずっと見張っていてあげないといけないのかなぁ?」
男の瞳は、死んだ魚が浮かべる濁った目の色に酷似していた。
「ごめんね、これからは毎日会いに行ってあげるからね?」
ふらふらと男が近寄ってくる。
「やだっ。こっちくんな!」
弾かれたようにナルトの声が飛ぶ。
「ナルトくん……?」
「オレってばあんたのコイビトなんかじゃねーもん。それにっ、カカシ先生にだって近付かなかった。ずっと約束守ってたじゃん!」
ナルトが半ばパニックになって叫ぶ。
「もう付き纏うなってばあっ」
怖かった。無理矢理距離を縮め、近寄って来られることが。自分の意思と無関係に築き上げられている関係全てが。
「またそんな意地悪なことを言うんだね。わかったよ、いいからこっちに来て僕と話し合おう?」
男が口の端を震わして、無理矢理笑みを作る。
どうしよう。このままではカカシ先生が。もう誰かが自分のせいで壊れてしまうのは嫌だ。そう思うと、ナルトの足が震えた。
と、そこで。はぁ、とそこでカカシの呆れたようなため息が落ちた。
「この子が困ってるでしょう。いい加減にしなさい」
後ろ手で後頭部で触りつつ、はたけカカシは胡乱な瞳でスーツ姿の男に向けた。完璧な三白眼である。
「貴方、何歳ですか。見たところ私と同年代のようですけど…。ああ、その首にかかったままの社員認可証。霧商事の方でしたか。これまた随分と大企業にお勤めのようですね?」
なめらかに滑るカカシの言葉にそこで初めて男の顔色が変わる。
「そういえば、あそこの役員の方に知り合いが居るんですよ。今度お会いした時に、貴方のことをお話したら、ちょっと面白いことになりそうですねぇ」
含むようにカカシが笑って、
「貴方のこの常軌を逸脱している行為のことを」
付け加えられた言葉に男が激昂する。
「うるさいっ、おまえの方こそ、ちょっと見てくれがいいからっていい気になるなよ。横から出てきたくせに、下心みえみえの顔でナルトくんにやけに馴れ馴れしくして!」
「まぁ、そこをつかれたらこっちも痛いんですけど」
カカシが苦笑して、だけどわざとらしく腕の中にいるナルトを引き寄せる。
「カカシせんせぇ……?」
火に油を注ぐような挑発的な態度。もし第三者がこの状況下でのはたけカカシのこの行動を見れば、この人は、もしかして極悪に性格が悪いのでは?と気付いた所であろうが、生憎とこの場には目を白黒とさせたナルトと、精神的に正常とは言えないストーカー男しかいない。
詰まる所、頭に血を上らせたストーカー男はいとも簡単にカカシの挑発に乗った。
「この子とオレ、こういう関係なんですよ?」
「嘘を吐け、そんなはずは…っ。なぁ、ナルトくんそうだろ?きみはその男に脅されてるだけなんだよね?」
「なんならここでキスして見せましょうか」
「おまえは黙ってろっ。僕は今、ナルトくんとお話してるんだよ!」
「この子は貴方と話したくないみたいですけどねぇ」
カカシが冷静な対応をするほど、男の態度は反比例するように平静を欠いていく。「返せっ」と男がよくわからない謎の叫びと共に、カカシの腕からナルトを引っ手繰ろうとする。
「や!」
ナルトの腕に男の指が食い込むのを、カカシは至極不快そうにな表情を浮かべ見咎めた。次の瞬間、男の姿が残像になって吹っ飛んだ。男の脇腹にカカシの蹴りが入る。
「………この子に触らないでくれる?」
聞いたこともないような霜の降るような声に、ナルトはびくんと身体を強張らせた。
「おまえのような奴が汚い手で触っていい子じゃないんだよ」
「ナルトくん…」
地面に這い蹲った男はそれでも光を求める夜光虫のようにナルトの足に手を伸ばそうとして、宙を彷徨ったが、あと僅かで届こうとした男の手をカカシが容赦なく踏みつけた。ぎゃ!というちょっと残酷な悲鳴と共に、
「さわるなって言ってるだろう?」
虫けらか何かを見るように男を見下ろす、完璧に無表情のカカシ。
ナルトはあまりのことに言葉を失い、こくんと喉を鳴らす。
「……つまり、オレはこいつのせいでナルトに避けられたわけ?」
アイスブルーの瞳がすうっと細められ、絶対零度まで冷たくなる。
「ふうん……。そう」
……カ、カカシせんせい?
「ナールト?」
やけに甘ったるく呼ばれカカシを振り仰ぐと、這い蹲る男に向けていたのとは180度違うニコニコ笑った顔のカカシが居て、「ちょっと待っててね?」と前髪を掻き揚げられて、おでこにキスが落とされる。
「!???」
真っ赤に染まった表情、他の男の腕に収められた少年の姿をストーカー男は窪んだ瞳で見つめていたが、
「見るんじゃないよ」
空気が歪むような音が響いたかと思うと、地面に倒れていたはずの男が壁に叩き付けられていた。
ナルトが「あっ」と止める間もなく、男の前に立って、ポケットに手を突っ込んだまま、無言でストーカーをゲシゲシと蹴り続けるカカシの背中はナルトの知らない人のようで、ナルトは急に怖くなった。男はもう悲鳴も上げないで蹴られ続けている。
「ッセンセ?何してるんだってば。もういいってばよ、オレってば、もう気にしてないから、やめてってば。お願いっ」
「なんで。許せないよ?」
「その人、もう気絶してるっ。そんなに蹴ったら死んじゃうってば!」
「こんなやつ死ねばい―――」
「カカシ先生っ!!」
泣きそうな表情で、カカシの腕を掴み見上げると、カカシは、はっとしたように動きを止めた。自分のシャツを掴む少年の指の先が白くなるほど握られていて、蒼白になった表情を見て我に返った。
「――あー、ナルト。ごめんな、ちょっと自制が効かなくて。頭に血が上っちゃった」
カカシはちょっと呆然とした表情を浮かべて、ぱし、ぱしと自ら自分の頬を叩いて「だってこいつがナルトのこと傷つけたから」と唸りつつ、はぁとため息を一つ吐く。
「ナールト、ごめんねぇ。もう、大~丈夫だよ?」
ぽすっと頭に手が置かれた時には、カカシはいつも力の抜けた笑みを浮かべていた。
「カカシ。〝ナルトが泣いてるっ〟とか訳のわかんないこと言って走り出すな。てめぇは犬か」
「アスマ、遅いよ。おまえこそ、ノソノソ歩いて。まるで熊?」
「てめー、一回その口にコンクリ詰め込んでやろうか?」
「おー、コワ。これだから人類未満は怖くてやだねー。アスマー、こいつ警察に突き出しといて」
「誰が人類未満だっ―――あん?んだよ、こいつ」
「変態」
「てめーが?」
金髪の少年を大事そうに抱き締めている状態の友人を揶揄するように呆れつつ煙草を吹かせば、アスマの顔に携帯電話が投げ付けられる。
「カカシ!」
「それ、オレの携帯。それにコイツとこの子の会話録音してあるから警察にそいつと一緒に持って行ってくれる?」
「証拠か…。ちゃっかりしてるじゃねぇか。てめぇは?」
「忙しいから無理」
あっさり一刀両断した友人をアスマは一瞬ぽかんと見つめ、カカシの腕の中でオロオロと事の成り行きを見守っている少年に気が付いて納得したように、あー…と頷く。
「おめー、少しは手加減しやがれ。骨何本かイってんじゃねぇか、こいつ」
「えー…?」
ニコニコ笑う友人にテメー確信犯で蹴ってやがったなと思いつつ、しゃがみ込んで「相手が悪かったなご愁傷様」と気絶している男を拝んでおく。
「カカシ、これ1個貸しな」
「アスマちゃん、アイシテルー」
「おまえに愛を囁かれっと、気持ち悪りぃよ」
しかもその怪しいカタカナ発音はなんだと、込み上げてきた吐き気を誤魔化すように煙を吐く。「カカシ先生、いいんだってば?」「いいの、いいの♪」と金髪の少年にだけ極甘の笑みを浮かべる友人を見送りつつ、
「つまりえーとなんだ、あいつとあいつのお姫さんがなぜかしっぽり収まっていて、この男は邪魔者で、犯罪者で?オレはその後処理をって、―――ああめんどくせっ!!!」
喫煙者のアスマの煙草量は彼の厄介な友人がいる限り当分減りそうにないようである。
ストーカーさんに同情のお便りが来そうです。
人間的危険度には
ストーカーさん<カカシ先生。ナルトにだけは優しい先生でした。
番外編。ぱちぱちぱち~。
出会い頭にハートをどきゅん☆
オレがガキどもの世話だって?とんでもない。なんでオレが下忍の先生なんてやらないといけないわけ?思案することコンマ一秒。
「お断りします」
「しかしカカシ、今年はおまえと浅からぬ縁でもある四代目の子も下忍として――、」
「私には関係ありませんね。生憎と子供の面倒を見れる性分ではありませんので」
三代目の申し出に即刻断りを入れた。
はたけカカシ26歳。職業・忍。5歳で下忍、6歳で中忍、13歳で上忍になった現役暗部。いわゆるエリートコースまっしぐらの男である。現在、特定の恋人はなし。ただし、一夜のベッドを共にする女なら片手に余って捨てるほど。
泣かせた女は数知れず、木の葉一の業師とは忍としての字ではあったが、別の意味でも有名で、道を歩けば、その日の夜の相手が向こうから寄ってきた。
だけど本気の恋愛ってものは未だに未経験。恋ってなあに?それっておいしいの?それが、オレの常識だった。そう、あの日。あの瞬間、あの子に出逢うまでは。
久し振りの休日に、男たちに小突かれている子供と出くわした。まったく目障りな光景を目にしたとそのまま当初の予定通り色街に繰り出そうとしたカカシだが、なんとなくガキを助けてみた。殴る蹴るまでは良かったが刃物が飛び出したのはいただけない。男たちを蹴飛ばして、地面に転がっていた子供の首根っこを引っ掴み仔猫よろしく子供を持ち上げれば、きょとんとした碧玉が己を映した。
「お、おにいさんが助けてくれたんだってば…?」
さくらんぼのように愛らしい唇から紡がれる、くりっくりの可愛らしいボイス、百カラットの宝石のように大きくて潤んだ瞳、長い睫毛、産毛がまだ生えているような真ん丸いほっぺ。
身なりこそ、捨て犬か何かのようにボロボロだったけど、アンティークドールのように整った容姿。
透き通るような碧い瞳と、ぴょこぴょこ跳ねた金髪の髪の毛は紛れもなくカカシの知っている師と同じものであったけど、ああこれほど美しいものだっただろうかとカカシは息をするのも忘れて小さな稚児に見惚れた。
太陽の光を受けてキラキラと輝く金糸の髪の毛が眩しくて目を眇めていると、
「助けてくれて、ありがとうだってば?」
こてんと首を傾げた子供が照れ臭そうに笑った。カカシの目の前で、零れ落ちそうなくらい大きな瞳が、はにかんで細められる。
「……………!!!!」
その瞬間、ヒットマンの格好をした陽気なキューピッドがウィンクひとつ飛ばして小銃でカカシのハートを打ち抜いた。
「立ち入り禁止お断り」の立て札をぶら下げて澄まして立っていた、高い、高い塔の上から真っ逆さまになって転落したカカシ。打ち抜かれた心臓を押さえつつ、地面から起き上がれば〝恋の道→〟の立て札とお花のアーチの掛かった初恋ロード。
「嘘でしょ…。こんなことって」
だけど、凍りついていると思っていた心臓はドクドクと脈打って、新しい血をポンプでカカシの全身へと送り出している。
カカシは子供の身体を抱え直し、そっと両脇に腕を差し込むと、壊れ物のように恭しく地面に降ろした。
子供の身体はどこもかしこも柔らかくて、生まれたての赤ちゃんみたいだった。それだけでカカシの心臓は最高潮に高鳴る。
「……おまえ、名前なんていうの?」
「うずまきナルトだってばよ!」
震える声で訊ねてみる。返ってくる答えなんて百も承知だったが、もっと形の良い唇が動いているのを見ていたかった。
「何歳?」
「12歳だってばよ!」
「ふうん」
12歳。…ま、いっか。とやはりコンマ一秒でカカシの中で結論が下る。ちなみに性別だとかいう1番初めに常人が気にするべき点はまったく歯牙にも引っ掛かっていない。
「手、怪我してるぞ」
「オレってばこれくらいへっちゃらなんだってば」
すぐ治っちゃうんだってばよ?と付け加えられる。
カカシは顔を顰めて携帯用の医療ポーチを取り出した。
「お兄さんの手、汚れちゃうってば…」
引っ込められそうになった手を掴んで応急処置を施す。
ふっくらとした手の平を握れば、極上のベルベットよりも滑らかな肌触り。消毒をして包帯をくるくると巻き終えると、「ありがとってば」と消え入りそうな小さな声で謝礼を言われる。ぱちぱちと恥ずかしそうに伏せられた瞳が愛らしい。
「またすぐに逢えるよ…」
夢心地で呟いた台詞はきっと子供には聞こえていなかったと思うが、そんなことはもうカカシにはどうでもいいことだった。ただ、目の前の子供をどうやって手に入れるか、それのみに向かってカカシの頭は働きだしていた。そう、まずは接点をつくらなくてはならない。それもなるべく沢山。この子にとって自分が、掛け替えのない位置の人物になれるほど。
「仕方ない、上忍師の任務は別の者に回すとするかのう…」
書類を片手に独り言を呟いた三代目火影は、ぺらぺらと他の上忍たちの忍者登録票を捲る。
「おお、こやつなぞいいかも知れん。上忍ではないが、なかなか目の利く男だ…、情に厚いとも聞く。九尾の件にも目を曇らせず平等に接してくれよう」
伝令用の鳥を飛ばそうと、ペンを置いたところで、だだだだだだ、と火影執務室に向かって地響きが近付いて来た。物凄い勢いで接近してくるこのチャクラは…
(あやつがこんなに取り乱すとは、12年前のあの日以来…いやこれはそれ以上か)
何事か!?と火影が椅子から腰を浮かそうとしたその時、すぱーん!!と、ど派手に扉が開けられる。およそ忍とは思えない足音と共に登場をしたのは、はたけカカシその人だった。
「カカシ…おぬしどうした!?」
いつにない、というか今までに見たことのないカカシの様子に三代目火影が戦慄く。
「敵襲か!?」
「火影さま、先程の件、謹んでお受けいたします…!!」
どちらも鬼気迫る顔で執務机に向かい合い、だん!と手を付き「!?」と同時に固まる。
「…カカシ?」
「あ!火影さま、その手に持っている書類は……!?」
「ん?上忍師候補のものであるが…。おぬしの代わりに不知火でも任命しようと思っての。あやつは特上ではあるが、特例として上忍師として働かせようかと…」
「は?」
カカシの発言に火影が固まる。しかし、あまりのカカシの豹変振りに脳が処理仕切れなかったようで、のろのろと一歩遅れたような反応しか取れない。
「いや、しかしのう…。別におぬしに無理を強いてまではやってもらわんでも…」
ぼそりぼそりと呟きながら戸惑う火影に、
「やります!やります!!やらせてください!!」
畳み掛けるようにカカシが身を乗り出す。
「どうした?おぬし、やりたくないとぬかしていたではないか?どういう心変わりじゃ?」
「何を言いますか、火影さま!下忍育成は、木の葉の未来を担う重大な職務の一つ!このはたけカカシ、謹んで拝命させて頂きます」
「おぬし…。さきほどと言っていることが180度変っておらんか?」
「気のせいです!!!」
きっぱりと言い切ったカカシに三代目火影は顎を擦りつつ煙管を吹かす。まぁ、この男がやる気を出してくれたのなら、結構なことではないか。元より、ナルトの身の内にある九尾のことや、うちはの生き残りの子供のことを考えれば、カカシほどこの任に適任な上忍はいなかったのだから。そんなことをつらつらと考えつつ、プロフェッサーと呼ばれた老人は、ふむふむと頷いて、
「わかった、わかった。おぬしがそこまでいうのなら了承しないこともないぞ」
「ありがとうございます、火影さま!是非、うずまきナルトの上忍師としてご指名ください!!」
「いや、他の下忍も2名おるのだがのう…」
「火影さま!!」
「まぁよかろう。では、はたけカカシ、おぬしを今日より上忍師および九尾の監視役として任命する」
あまりの気迫に押されて、つい…と、
あとに三代目火影はこの時の自分の浅はかな判断を、人生最大の失点として後悔することになるのだが、それはまた別の話。
「有難きしあわせにございます、火影さま」
うやうやしく頭を下げた銀髪の男は、にんまりと口を吊り上げて、明日からの毎日に思いを馳せた。金色のあの子は誰のもの?はたけカカシのもの?
つまりは、ある人でなしと呼ばれた男の、生涯でただ一度の大迷惑な巻き込み式大恋愛の始まりの日だったのだが、
厄介な人物にハートをロックオンされた憐れなお子さまの運命やいかに。
猫が趣味に走りましたよ!なイチゴミルク9
前半、飛ばして読みましょう。
ナルトの父親のミナトが手紙の一通も残さずに行方を晦ましたのはナルトがまだ7歳の頃のことだった。
UZU商事という大手外資系企業のサラリーマンとして働いていた彼は、ある日、ナルトが家に帰ると部屋にベットだけを残して忽然と消えていた。
外でシカマルやチョウジとボール遊びをして帰宅したナルトは、自分の頭半分ほどの大きさのボールを抱えたまま、荷物の無くなった部屋をただ呆然と見つめて立ち尽くした。夕焼けに真っ赤に染まる部屋の中で、伸びた影がやけに頼りなくゆらゆらと揺れて、ナルトは、父のけして多かったわけでない身の周りの品が全て消えていることに、戸惑いを覚えた。
まだ物心ついたばかりの少年に、家族が一人欠けてしまうという事実は、現実のものとしては認識できなくて、きょとんと何度か首を傾げ、もう二度と使われることのないであろう、皴のよったシーツを撫ぜたが、大好きだった匂いも温度も、もうそこにはなくて、母親が帰宅するまでナルトは持ち主の居なくなった部屋の隅で膝を抱え座り込んだ。
それはちょうど、ミナトが前の仕事を辞めてサラリーマンとして勤め始めて、1年たった頃のことだった。
UZU商事の社長令嬢だったクシナと、ミナトがどこで出会い結婚したのかは謎だが、二人が周囲の反対を押し切り結婚したことだけは確かだった。
あとから母親のクシナに聞いた話しではミナトはクシナとの結婚を許される代わりに、クシナの父である人物の要請で(ナルトは彼が苦手なのだが)半ば強制的に、跡継ぎとしての役割を課せられたらしく、次期社長となるべく、義父傘下の会社で働き始めたらしい。だけど、元が自由奔放な気質だった父は、黒山のサラリーマンの中では異分子だった。
父にとってサラリーマン同士の上辺だけの社交辞令は理解不能でしかなく「なんできみたちは楽しくもないのに笑っているんだい?」と笑顔で言って周りを凍りつかせることを得意としていたらしい。
蓄一がそうであったのだから、あとになって母のクシナは「あの人にはネクタイを締める職業が向いてなかったのね」とあっけらかんと笑った。
名刺交換のタイミングがグダグダなサラリーマンなんて本当にどうしようもねぇ人だってばよ、なんてナルトはズレたことを思いつつ、つまり、ナルトは父親に捨てられたわけなのだが、だからと言って彼を責める気持ちには成れず、むしろ毎日、笑いながら職場に出勤していた彼が、クシナとナルトいう家族を維持するためにそんな苦労をしていたのかと思うと申し訳ない気持ちになった。
ミナトが失踪する数日前の夕方。河原を散策した帰り道、手を繋いで家路に着いたのが、ミナトとナルトの最後の思い出だった。ミナトは仕事でどんなに疲れた休日も息子のナルトと一日中過ごすような父親で、その時のことはもうぼんやりとしかもう覚えていないが、ナルトは父親の腕に全身の体重を掛けてぶら下がっては振り子のように足を浮かせるという遊びを発明して、
「ナルト、痛いよ」と、痛がる父の表情が面白くて、飽きることなく繰り返していた。大好きな大人を困らせたくなるのは子供の不思議な習性の一つだが、ナルトは特にそれが好きな子供で、よく悪戯をしては彼を困らせた。(例えば、出勤前のミナトの腕時計を隠したり、靴の紐をこっそり結んで蹴躓かせたり)
だが、どんな悪戯をしても、ナルトはついぞミナトに叱られた記憶がなどなく、彼の顔で思い出すのはいつも柔らかい困ったような笑顔だった。
その日も、ミナトは悪戯っ子の顔でニシシと笑うナルトを見下ろして、少し困ったような柔らかい表情で笑った。今思えば、夕日の中で振り返ったあの時の彼の笑顔はあれはもう全てを決心していた顔だったが、彼との記憶は今でも柔らかくて優しい飴色の思い出に包まれていた。
その後、父の失踪に激怒した義父が家に押し掛けて来たり、ナルトとクシナは離れ離れにさせられたり、色々なことがあったが、今でもあの空っぽの部屋を思い出すと怖かった。あの瞬間、たしかにナルトは始めての喪失を経験したのだから。
夕暮れの真っ赤な部屋で、家族という一番確かだと思っていた集団が崩壊した時、この世に絶対なんて繋がりの人間関係はありはしないのだと、ナルトは7歳にして悟った。
祖父代わりの老人が死んだ時、その思いは一段とナルトの中で強くなって、それ以来、人と繋がりを持つ時、いつか壊れてしまうことを前提で、付き合いを持つようになった。それがナルトが人と関わる時に持つ壁だというのなら、ああそうなのかもしれないと思う。だって、もう自分は何も失いたくなかった。手に入れて零れ落ちていく不確かなものなんて、どうか初めから差し出さないで欲しい。失う哀しみなんて二度と味わいたくないのだ。
だから、けして何事にものめり込まない。距離を取り、一歩引いていれば、失った時の哀しみが少なくなるから。
綱手が養いの親として申し入れをしてくれた時、有り難いと思うと同時に、この温かくて優しい人たちをこれ以上好きになってはいけないと線を引いた。
2年。それが限界だった。どんなに線を引こうとしても、じわりじわりと侵食してくる、おままごと遊びのように始った〝擬似家族〟。だけどそれが〝ホンモノ〟に変りそうになるにはそう掛からなくて、綱手のばあちゃん、シズネ姉ちゃん、ゲン兄を始め工員の皆。ナルトの中でまた掛け替えのない人たちが出来てしまった。大事なものなど作りたくなかったのに。
このままでは、また失う哀しみを経験してしまうと、ナルトは本当のところ半ば逃げるように綱手の工場から飛び出した。
アパートで暮らし始めると、孤独が襲ったが、気が楽になった。独りならもう何も失わない。傷付かない。誤魔化すようにバイトにのめり込んだ。
それなのに、またナルトの前に、不可思議な人物が現れた。微妙な距離を取りつつ、近付いて来た彼は、ナルトが拒否をするにしては、遠すぎて、だけど確実に近付き、気が付けばひょっこり隣に居た。素知らぬ笑顔と共に。
最初の出会いなど、本当のことを言えば覚えていない。それほど密やかに始っていたのだから。
木の葉マート夜の10時きっかり。いつも決まった時間に現れて、世の中には随分綺麗な人がいるものだなと、思ったのがきっかけで、なんとなく目で追うようになり、いつの間にか彼の来る時間を意識するようになった。
そのうち短い挨拶を交わすようになり、名前を知った。名前を知ったからと言ってお互い呼び合うでもなく、数週間が過ぎて、ヤマトとの会話から発展したひょんなことから、お客さんのはたけカカシは〝カカシ先生〟になって、コンビニ店員だった自分は〝ナルト〟になった。
一度、そうやって硬い結び目が解けると、あとはするすると親しくなって、だけどカカシは一定の距離以上近付いて来なかった。
境界線が破られたのは、あの夏の日とナルトが倒れそうになったあの日。お客さんのはたけカカシが〝オトナのオトコノヒト〟なのだと意識した。
彼といると、ふわふわとした、それでいて不思議な気分になった。シカマルやキバやチョウジたち以外で初めてだった。ナルトがちょうど良いと思う距離を維持して接してくれた人は。それでいて、生温いお湯の中に居るようで、後ろから包み込まれているような、安心感があって。――――ああ、オトウサンみたいなヒトだと、ナルトは思ってしまった。
ダメだと思いつつ、彼と父親を重ね、だけど父親にはない心臓がひとつ飛び跳ねてしまうようなドキドキした気持ちもあり、わからない、わからないことだらけなのだ彼についての感情に関しては。
まだ、この感情に名前は付けられなくて、知り合いだというにしては親しすぎて、友だちというにしては、年が離れすぎていて、じゃあ二人の関係ってなに?と人様から聞かれれば、呆然としてしまう、コンビニ店員とお客の枠組みを取っ払うと、途端に宙ぶらりんな二人。ちぐはぐで接点なんてまるでなくて、それでも不思議と会話に詰まったことがなくて…、ああ、彼を失いたくないと思った。
もう失いたくない。―――だから、オレは。
たくさんのものを喪失した子供だった少年は失うことに慣れて、それと同時に臆病になっていた。
夕方、目が覚めるとシーツが濡れていた。なぜだろうと首を傾げて、自分の頬に伝う滴に気が付く。どうやら眠りながら泣いていたらしい。
――もうナルトが嫌だっていうなら来ないよ。
寂しそうに伏せられた色違いの瞳。ごめん、ごめんなさい。心の中でもう何度カカシに謝っただろう。ナルトは、涙で滲んだ視界を片腕でごしごし擦って拭う。
「バイト。行かなきゃな…」
ダルい身体を叱咤しつつ、もう仕度をするのも面倒臭くて、そのまま玄関に向かう。だけど、
「ヒッ」
ドアノブを捻り、外に出たところで、羽根を千切られた小鳥の死骸、ぐちゃぐちゃに潰された肉の塊にナルトの喉が短く息を呑む。
数羽の小鳥の血で濡れたコンクリの真ん中にはジャックナイフと共に、いつ撮影したのだろうかカカシとナルトがレジで向かい合っている写真。それは鳥の死骸と同じくらい歪められ、血塗られていた。
「違うっ、仲良くなんかしてないってばっ」
どこにいるかもわからない相手に向かって、声を張り上げるが、答えは返って来なかった。
「ナルトくん、最近元気がないねぇ。顔色も悪そうだし、今日は早めに上がっていいよ?」
「だ、大丈夫です。オレってばへーきだってば!」
にっこり笑って見たが、いいからもう帰りなさいと、店長…秋道チョウザに追い立てられて結局、二時間も早くバイトを切り上げることになった。
木の葉マートは秋道家が経営するコンビニだ。なぜ息子のチョウジを雇わないのかと言えば、以前自分の息子に店番をさせた時に店中のスナック菓子を勝手に平らげてしまったからに他ならない。
そんな事情もあり、チョウジの友人であるキバやナルトがコンビニ店員として雇われることになったのだ。
表情に出ちゃうなんてオレもまだまだだってばよと、ため息と共にコンビニを出れば、深夜に差し掛かってはいないとはいえ、もう人通りの少ない時間帯。
――コンビニの帰り道が怖くなった。一度、あの男に待ち伏せられてからというもの、警戒して帰っているものの、自転車を買うのも既に億劫で結局徒歩のままだ。予算のことを考えればタクシーを使うわけにも行くまい。(んなことしたらバイトしてる意味がねーっ)
だけど何度目かの角を周ったところで、後ろから等間隔で付いてくる足音に気が付いた。ナルトの背筋に冷やりとしたものが伝う。
念のため、自分の歩幅の少し速めてみると追い掛けて来る足音も同じように変化する。
(――っ!!)
背中をぞわりとしたものが撫でて、弾かれたようにナルトは駆け出した。怖い、怖い、怖いっ。恐怖で足が縺れそうになりながらも走る。
「やだぁっ!!」
「―――ナルト!?」
半ば転がるように足音を振り切り、角を曲がった所で、ふわりと香った男物の香水。外套の中に、ナルトの身体がすっぽりと受け止められる。
「おまえ、どうしたの?」
「んせ……」
ガタガタと小刻みに震える少年の様相に何事かと、カカシが目を見開いている。
「どうした。寒いの…?」
どうしよう。なんでこんなタイミングで現れるのだろう、この人は。
ことさら優しくて柔らかい声が、降ってくる。ナルトが俯いて首を振ると、躊躇い勝ちに頭をよしよしと撫でられて、くしゃりと歪む表情を抑えられなかった。
(カカシ先生、緊張してるってば。オレがイヤがると思ってるから…?)
「……ナルト?」
それでも余裕のある大人の声を作って話しかけてくれる、この手をどうして振り払えようか。だめだと思うのに、震える手はカカシのシャツをしっかりと握り締めて、戸惑ったようにナルトを抱き返したカカシに、ナルトの涙腺が決壊した。
ぽたりとアスファルトに落ちた涙の滴の中。銀髪の大人と少年の姿だけが逆さまに内包されて。
半円形の透きとおった世界には二人だけしかいないみたいだった。
もっとも、そんなことは抱き合う二人は知る由もないことだったが。
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職業 ノラ
趣味 散歩・ゴミ箱漁り
餌 カカナル
夢 集団行動
唄 椎名林檎
性質 人間未満
日記 猫日和
ある日、カカナルという名のブラックホールに迷いこむ。困ったことに抜け出せそうにない。